koewokiku(HPへ)

« 大芦浦について8 | トップページ | 二つの横田神社1 »

2020年1月15日 (水)

大芦浦について9

 新たな情報を得るとそれまでの解釈を変えなければならなくなる、大芦浦についてはその連続である。今回は、島根公民館長から電話で話を聞いたことと、明治三五年の大碕川辺神社と大碕神社の由緒書を確認したことによる(由緒書八束郡上)。
 現況からすると大碕神社が敷地も広く、建物の規模も勝っているが、明細帳では大碕川辺神社の氏子が大碕神社の二倍である点の理由を聞いた。すると氏子の対立により大碕川辺神社から分かれて創立したのが大碕神社で、氏子は海鳥とのことだった。正確に言えば、北垣内森田にあった国主大明神から独立して母坂大明神が小具に創立された。神社明細帳では境内の面積で大碕神社が川辺神社の約二倍であったが、由緒書に引用されている明治一四年の明細書では大碕神社が二〇二坪、大碕川辺神社が二八四坪である。前者は後に五倍の広さとなり。後者も二倍の面積となっている。前回は北野天満宮が勧請されたのは大碕神社のあたりとしたが、中世は神仏習合であり、後述の瑞光寺の場所が有力か(再検討中)。京都の北野天満宮と関わりの深いのは天台宗曼珠院で門主が北野神社別当を兼務していた。その初代院主が菅原氏出身の是算国師とされるが、その活動時期については諸説あるようだ。
 『雲陽誌』を含め神社に関して述べた書物は、「馬鹿の一つ覚え」としか表現しようがないが、自分が知っている『出雲国風土記』の神社に比定する。そこには何の根拠もないのである。寛永六年に国主大明神が建立されているが、同じ場所に母坂大明神もあった。ただ、神社としては独立しているので、造営、修復、上葺は独立して行われる。それが氏子間の対立により、母坂大明神は延宝四年に小具の地に遷って建立された(ただし、海鳥のみが氏子かは未確認)。神主は国主大明神と同じく小具主膳であった。寛文一二年の大芦浦検地帳(県立図書館に旧県史編纂時の抄本あり)には田畠の請作人として、神社関係では日田社二筆と主膳一七筆、神田二筆がみえる。日田社については不明だが、主膳が国主大明神と母坂大明神の神主であり、当時は二社は北垣内森田にあった可能性が高い。寺院関係では瑞光院が一一筆、宝寿寺が一筆、小法が六筆(北垣と垣之内にあり、あるいは天王の関係か)、慶正が一筆ある。瑞光院の請地には「慶真院」「慶寿院」という地名がみえるが、瑞光院(寺)の歴史がたどれるのは万寿寺四世龍関大和尚を開山とした承応四年(一六五五)以降である。「慶真院」ないしは「慶寿院」がその前身となる寺院である可能性もある。島根町誌編纂時に蒐集した史料は町の体育館に保管されているとのことで、寛文一二年検地帳を含めた関係史料が残っていれば、より正確な情報に基づき考察できる。歴史を自分の都合の良い部分のみ取り出して恣意的に解釈するのはもうやめてほしい、これが『風土記』にのみ注目する人々への注文である。未来は創るものであるが、過去は発見するものであり作るものではない。

« 大芦浦について8 | トップページ | 二つの横田神社1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 大芦浦について8 | トップページ | 二つの横田神社1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ