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2020年1月10日 (金)

大芦浦について4

 大芦の天満宮については、明治三五年(一九〇二)に県に提出された由緒書が残っているが、そこに引用された明治一四年(一八八一)五月の由緒書によると、創立の由緒は不明だが、大宰府天満宮からの分霊により勧請したとの古老の言い伝えがあるとしている。天和三年(一六八三)二月に再創立されたとして、同年の棟札を載せている。神主は小具主膳(後述の宝永六=一七〇九年塩浜改帳や寛文一二=一六七二年大芦浦御検地帳にもみえる)であるが、宝暦四年(一七五四)九月の修復の棟札では「小具若狭守藤原定長、同倅小具丹波守藤原定之」と記している。直近では明治一五年一二月に上葺を行った棟札があるとのこと。引用された宝暦一四年社司小具主鈴書出帳によると建立・修復は大芦浦の濱・小具と北垣内別所(後述の大芦村別所ではなく、北垣内の別所の意味であろう)の氏子が担ったとする。
 大芦村別所にある将軍神社の明治三五年由緒書もあるが、金津多喜永が両社の社掌を兼任していた。永禄年間までは大芦村字楡木の茅山に上将軍大明神と下将軍大明神が鎮座していたが、高渋城主金山兵庫が信仰して、別所に遷したとする。一方、別所の開発を行ったのは安芸国出身の田中仁左衛門と小田理次郎右衛門で、両人は飯石郡朝原村に板垣次右衛門を訪ね、弘治二年三月に別所に来住し、その後に人口が増加したとする。『島根町誌』史料編(1981年)によると、別所地区住民の苗字では一位田中九軒、二位小田八軒、三位宮廻五軒であった。由緒書に引用された明治一七年三月の明細帳によると、当社も宝暦四年(一七五四)九月に再創立したこと、明治七年神社改正の際にも廃社となり、その後一六年一〇月に復旧を許可されたことがわかる。そして、金津多喜永とは大碕(埼)神社祠掌で、天満宮と将軍神社を兼務していたこともわかる。
 と、ここまでは良かったが、社蔵古文書の最初に掲載されている天正一〇年壬午九月一九日の下将軍大明神修復の棟札で当惑してしまった。諸奉行として「庄屋伊四郎」とある上に、本願として「田中助右エ門、小田平□□」とあり、さらには近世の同社の棟札と共通するのである。そこで、再検討した結果、これは宝暦四年の再創立後の宝暦一二年(壬午)のものであることが判明した。宝暦四年の際の神主は小具若狭守藤原定長であるが、問題の棟札には「神主小具氏丹波守」とある。これは前述の宝暦四年の天満宮棟札の「倅小具丹波守定之」と同一人物である。実際に、将軍神社の宝暦一二年壬午九月一九日棟札も残っており、そこには「神主小具氏丹波守定之」と記されている。天正一〇年棟札は『松江市史』史料編中世Ⅱ、長谷川氏報告書にも掲載されているが、訂正が必要である。当方も偶々大芦村について近世の棟札を含めて検討したために確認できた。どうみても天正一〇年で「庄屋」はあり得ないのだが、当方の棟札のメモでも、それに気づいて検討した形跡はない。

 

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