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2020年1月14日 (火)

大芦浦について8

 ただし、明細書にはいくつか注目すべき内容が記されていた。大埼神社の氏子は明治五年時点で九六戸、大埼川辺神社は一九六戸であった。前者はHPで確認したのみであるが、大芦浦の中央に位置し、境内も川辺神社より明らかに広かった。明細書でも前者は一〇六九坪に対して後者は五九六坪で、本殿等の建物も前者が規模が大きいようにみえた(面積は明治五年以降の明細帳の数字か)。両社氏子の地域区分を確認していないが、所在する浜・小具が前者の、その以外が後者であろうか。これに対して雑社とされた天満宮は氏子の戸数ではなく、崇敬者が一九六人で境内はわずかに六三坪坪と記されているが、その範囲は不明である。
 両社の起源が不明というのは理解できるが、大埼神社は延宝四年(一六七六)一二月六日に再創立、大埼川辺神社は寛永六年(一六二九)八月に再創立と記されている。前述のように天満宮は天和三年(一六八三)二月に再創立であり、以前は楡木内茅山にあったとする将軍神社を含めて、大芦浦の主要神社が廃絶した可能性が出てきた。将軍神社については尼子・毛利の合戦によるものではないかとの説も前に示した。大芦浦と関係が深い加賀浦が尼子・毛利の合戦の舞台となったことが確認できるのは元亀元年(一五六九)一〇月で、毛利氏は家臣の児玉就英が敵船を切捕らえたことを賞している。次いで加賀浦を占領した毛利方は翌年初めには加賀浦に小城を普請しつつ、並行して城番を配置している。湯原氏は元亀四年(一五七二)時点でも城番を続けている。『島根町誌』では加賀は早くから毛利方となったとする。
 これに対して、天和三年再創立とされる天満宮に有力者髙井氏が御神臺を寄附したのは天正二年(一五七四)であった。合戦の舞台を避けて、天正二年までに菅原道真を祀る天満宮が北垣に再建されたが、有力者髙井氏の支援が大きく、他の神社とは性格が異なり、氏子を有しないものであった(ただし、棟札には庄屋や藩の役人の名がみえる)。論者が北垣で地元の方(その場所からして東部では髙井氏に次ぐ勢力を有した藤井氏の関係者であったと思われる)から天満宮について聞いたが、記憶から失われていたのはそのためであろう。一方、大埼神社と大埼川辺神社もまた断絶したことも確認できた。その時々の状況で神社はその位置、性格を大きく変化させており、風土記時代の神社に比定することがほとんど意味のないことも再確認できた。とりあえず、大埼神社と大埼川辺神社の氏子の範囲を確認することが必要である。
 なお、『郷土調査』(大芦村尋常高等小学校、大芦村実業公民学校、一九三四年刊)には当時の村内年中行事が記され、その中に神社の祭礼が登場しているが、楡木では熊野神社、日御崎神社の例祭と荒神祭が、浜では木野山神社例祭と荒神祭、海鳥では秋葉神社例祭と荒神祭、小具では弁天神社例祭と荒神祭、別所では将軍神社例祭と荒神祭、北垣では天王神社例祭と荒神祭、垣之内では蛇神社例祭と荒神祭が記されている。大埼社と大埼川辺神社の祈年祭、例祭、新嘗祭は地区が記されて居らず、村全体の祭とも解釈できる。新嘗祭こそ同日(一一月二三日)開催であるが、祈年祭と例祭は日をずらして開催されている。ちなみに、三月一一日の天王神社例祭は近世末には旧暦二月一一日に天王様祭として行われていた(『島根町誌』の高井家の日記による)。

 

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