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2020年1月26日 (日)

大芦浦について10

  大芦についてはその後、県立図書館所蔵の「享保十二年(一七二七)大芦浦神社指出」(『近世筆写編』253)と「寛政四年(一七九二)島根郡西組村々萬差出帳」を閲覧した。前者は蔵書検索ではヒットせず、他の史料を閲覧する中で偶然遭遇した。後者は過去に人口データと差別の問題について考えた際に利用したのを思い出して、再確認した。東組分については残っていない。
 北垣の国主大明神と小具の母坂大明神の棟札が掲載されていたが、前述の「目録」と「由緒書」のものと一部表記の違いはあるが、基本的には同一のものであった。国主大明神が再創立されたとする寛永六年の約一〇〇年後のものであり、母坂大明神が延宝六年に再創立されたことを含め、事実としてよかろう。
 戦国期には大芦浦と加賀浦の貫高にはさほど差が無い(合計三〇〇貫)ことを述べたが、寛文一二年の大芦浦の石高が五六九石余であったのに対し、翌年の加賀浦の石高は五一〇石余であった。前者は検地帳が残っており、後者は残っていないが、いすれもそれ以降検地がなされなかったため、西組差出帳にその数値が引用されていた。なお、大芦の検地帳は大芦村役場所蔵本から写した抄本が県立図書館に所蔵されているが、松江市史編纂室で、地元の庄屋の家にも完本が残っていることを教えていただいたので、近いうちに所蔵者に連絡して調査したい。役目屋敷(御免となる庄屋等一部の屋敷を除いたもの)の数も大芦が三六(年寄二、百姓三四)、加賀が三五(年寄三、百姓三二)、人口は大芦が一二三一人、加賀が一二四二人とほぼ同規模である(いずれも寛政四年)。ただし明治九年には大芦が一二七五人に対し、加賀が一四八〇人と少し差がついている(『郡村誌』)。
 享保一二年指出には、大芦浦の享保四年天頭天王社棟札、元禄一五年弁才天社棟札、正徳二年熊野権現社棟札、貞享五年日御崎大神宮社棟札も引用され、荒神が七ヶ所あったことも記されているが、寛政四年差出では、天王、上将軍、下将軍、日御崎、熊野神社、弁才天は末社と記されている。また、国主大明神社の敷地が一間四方、母坂大明神社が五尺×六尺。天神社が㈡尺×三尺と記され、国主大明神が本来最も規模が大きかったことがわかる。
 大芦浦、加賀浦とも漁業と海運業に従事する人がいたが、大芦浦は隠岐国の牛皮を運ぶ船持がいたことも前述の通り。それとの関係は不明だが、牛馬の数をみると、出雲国の郡レベルでは牛の数が馬の四倍以上である。ただし流通の拠点となる町では馬の数が明らかに多い。隠岐の島前(本来は道前が正しい)では牛馬の差がほとんどなく、道後では牛が馬の1.4倍程度で、ともに馬の占める割合が大きい。一般の村では牛はほとんど「こととい」(牡牛)であるが、加賀浦では牡牛一頭、「うなめ」=牝牛六二頭と対照的である。これが大芦となると、牡牛73頭と牝牛六五頭である。その背景についてはデータが少なく不明である。牡牛は耕作での利用であろうが、牝牛は何であろうか。大芦は検地帳によると浦の割には田数もあり、且つ等級の髙い上々田、上田の割合が高かったことと牡牛の多さと関係があろうか。


 

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