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2020年1月25日 (土)

藤原有定・有隆父子7

 日野資憲の未確認史料一点を確認したことをうけて可能な範囲でさらに探してみたところ、日野有隆の史料を一点確認できた。有隆が待賢門院別当(判官代から昇進)日野資光ならびに崇德天皇との関係を有していたことの傍証となるものである。出典は藤原為隆の日記『永昌記』保安四年一〇月一五日条であるが、これは活字本やその他の写本(群書類従も含む)としては確認できない。崇德天皇の大嘗会御禊に関するものであり、そうした儀式の記録をまとめた記録に収録されているものであろうが、現時点では特定できていない。『日本史総覧』作成のため、戦前作成された史料稿文である(『大日本史料』の未公刊部分について、検索で確認できる。現在の刊行済は三編二九冊に保安三年四月までで、第二九冊にも有隆の関係史料が一点収録)。そこでは複数の史料から関係する部分が抜き出されているが、有隆は大嘗会御禊次第司の判官の一人であった。他の引用史料では、長官と次官のみ実名が記され、判官は服装のみ詳細に記されている。
 大嘗会御禊とは即位後初の大嘗祭のための潔斎として、天皇が川へ行幸して身を清める禊(みそぎ)の儀式で、即位時に用いる旗のもとで全体を統括する「節下大臣」は右大臣兼左大将藤原家忠、賽の河原(鴨川)で行う禊祓の場所の選定と設営を担う装束司は権中納言藤原顕隆、その際の前陣と後陣の行列を奉行する次第司(三位相当)は権中納言藤原実行(前)と参議兼右中将源師時(後)、女御の代わりを務めたのは「右大臣養子〈実大納言経実卿女〉」とあるが、経実の娘(母は待賢門院の同母姉で、同母兄が経宗)で内大臣源有仁の養女となっていた八才の懿子であろう。懿子は後に崇德の弟雅仁(後白河天皇)との間に守仁(二条天皇)を産んでいる。いずれも、崇德の母待賢門院と関係の深い人物である。
 前後次第司の次官(五位相当)が式部権少輔日野資光(前)と兵部少輔平知信(後)、判官(六位相当)が式部丞有隆・中務丞□隆(前)と民部丞公長・広兼(後)であった。資光(父有信)と有隆(父有定)は従兄弟であるとともに、式部省の同僚(上司と部下)であった。有隆の姉妹が資憲の母であったことは前述の通りである。石見国長野庄は、待賢門院領として寄進・立券後、領域を拡大して第二次の寄進・立券が行われ、崇德院庁分領となったというのが本ブログの説である。御願寺である成勝寺の庄園は保元の乱による没収は免れたが、崇德院庁分(明記された庄園は確認できない)は没収されたはずである。そしてそれが為に崇德院の除霊が行われるようになると、後白河院によってその一部が粟田宮社領とされた。出雲国杵築大社領も庁分領であったと思われるが、その後賀茂斎院領となったため、粟田宮社領にはされなかった。有隆の子(資憲と同世代の従兄弟)については系図には父有隆が仕えた源有仁の勾当となったことが記されるが、その一方で、崇德院との関係を有した可能性は大きく、それがゆえに、長野庄の第二次立券の参加者であった国兼(安富郷下司、その養子宗兼も得屋郷下司)を有隆の子とする系図が後に作成されたと思われる。

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