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2020年1月 5日 (日)

白河院と知行国制2

 俊実の子は忠隆(高)・保隆・実保・実隆と、俊実の父隆俊にちなむ名前をつけられているが、その任官が史料で確認できるのは、天仁二年(一一〇九)正月に六四才の俊実が権大納言を辞して忠高(隆)が美濃守に補任された事のみである。天永二年四月にも忠高の美濃守見任が確認でき、翌三年二月には春日祭上卿を勤める忠通の前駈の中にもみえている(『中右記』)。ここからすると忠高は俊実の晩年の子であった可能性が高い。一方、資綱には道方娘を母とする家賢と道良がいたが、家賢の子は家俊、道良の子は俊兼と、いずれも「俊」の字を名前に付けている。任官の記録としては、家俊が永久元年(一一一三)~元永三年(一一二〇)にかけて伊賀守であったことと、大治二年(一一二七)に前陸奥守であったことのみである。家俊の生年は不明だが、その父家賢は俊実の二才下であり、家俊は忠高より年上で、従兄弟の俊兼とともに俊実の養子となったのではないか。このことが、『古事談』の逸話で顕基の子資綱が俊実に変更された背景ではないか。後継者が生まれない場合に、親戚から養子を迎えることはよくあることであった。問題は俊実が知行国の返上と改給を求めた際の国守が誰かであるが、実子忠高ではなく、養子であった家俊ではないか。家俊は国名は不明だが、伊賀守以前にも受領経験があったと思われる。この俊実の好意の背景に、家俊の曾祖父顕基が俊実にしめした配慮があったと解釈してのではないか。ただし、検討したように物理的にあり得ないことであった。
 次に二例目が俊実の叔父にあたる俊明とした場合の国守であるが、俊明の子で受領補任が確認できるのは、天治二年(一一二五)正月に伊賀守に補任された憲明のみである。憲明は永久四(一一一六)年一二月一九日に民部省役人が民部史生桜井宿祢松枝を備後国大目に補任するよう申請しているが、その中に「従五位下守権大輔源朝臣憲明」がみえ、民部権大輔と国名は不明だが国守を兼任していたことがわかる。これに対して俊明の嫡子能俊が叙爵したのは承暦四年(一〇八〇)正月、従五位上に叙せられたのは応徳二年(一〇八五)正月である。憲明がなお従五位下であった二九年前に能俊は従五位上となっており、憲明が俊明の晩年の子であったことは確実である。ちなみに能俊誕生時に俊明は二七才であった。
 俊明は大納言兼民部卿であった永久二年(一一一四)一二月に病気で出家し、七一才で死亡しているが、その晩年に憲明を自らの知行国の国守にしたのではないか。当初二例目の候補とした権大納言藤原公実よりは国守とすべき「切実な」(将来が案ぜられる)候補者があり、こちらの可能性が高いと考える。推測に推測を重ねたが、最大の成果は、院分国の変化と知行国制の変化が連動していることを確認できたことである。『古事談』については鳥羽院が崇德院を叔父子と呼んだ逸話が有名であるが、河内祥輔『保元・平治の乱』では、これは平治の乱で失脚した藤原惟方からの情報に基づくとして、信憑性があると評価されていた。ただし、今回の源顕基の逸話は後の結果に影響されていることが明らかであり、「叔父子」も崇德院の没落という結果に基づく後付の解釈である可能性が高い。実際に、樋口健太郎『中世王権の成立と摂関家』では角田文衞氏の解釈が否定されている。今回も偶然から着手したが、難しい作業であり、疲れた。

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