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2020年1月20日 (月)

寺社名の付いた所領2

 二〇一二年に「寺社名の付いた所領1」をアップしたまま、放置していたが、ようやく「2」をアップする。
 建長元年注進状には、布施社、静雲寺、智伊宮(知伊社)がみえており、公領として扱われていたが、一方で、石清水八幡宮の別宮は庄園として扱われている。また、末次保は建長二年一一月の九条道家惣処分帳(九条家文書)では新御領の中にみえ、九条家家司でもあった藤原長倫が寄進したことが記されている。長倫は建仁元年正月に出雲権介に補任されており、これが末次保を獲得するきっかけとなり、承久の乱後に家司を務めていた九条家に寄進したと思われるが、それでも庄ではなく保と表記されることがあった。応保元年(一一六一)に左近衛府領であった母里庄は公的性格が強かったと思われ、文永八年には母里郷と公領としてみえている。一四世紀初めの室町院領目録には「母里庄」とみえるが、これは公領から庄園に変更されたものではなく、母里庄地頭職が武家(おそらくは守護佐々木氏)により室町院に寄進されたものである。
 寺社名の付いた所領とは別に、保として能義郡の真(実)松保・舎人保・井尻保・比知良保、意宇郡の乃木保・忌部保・大庭田尻保、島根郡の末次保・枕木保、秋鹿郡の岡本保・楯縫郡の小境保・佐香保・平田保、出東郡の福富保・志々塚保・波根保・吉成保、神門郡の恒松保である。四〇町近い大庭田尻保はあるが、田数二〇町未満が一八保中一〇と半数以上あり、且つ中山間地のみを郡域とする仁多郡、飯石郡、大原郡には一ヶ所もなく、平野部に限られている。能義郡赤江郷はその税が掃部寮に納入される便補保であった時点では赤江保と呼ばれていたし、石坂郷も石清水八幡宮領であった時点では石坂保と呼ばれていた。大庭田尻保は伊弉冉社(神魂神社)、枕木保は華蔵寺との関係が深く、平田保は水運の拠点である平田津(この呼称は確認できないが)との関係が深い。建長元年注進状には平田保、赤江郷(保)、福富保、舎人保、岡本保、真松保、波根保、吉成保、佐香保、恒松保の一〇保が相撲役を勤めており、公領として扱われている。
 寺社名の付いた所領と保は、その年貢等が特定の用途に宛てられた所領ではなかったか。そして別宮や末社のように庄園として扱われた所領もあったが、多くは公領として扱われた。ここで問題とするのはその成立時期である。島根郡枕木保については、一二世紀前半に周辺が待賢門院御願寺円勝寺に寄進される前に成立していたことが明らかである。秋鹿郡内成相寺も佐陀社が鳥羽天皇の持仏堂安楽寿院に寄進・立券される前に成立していたと考えられる。この点と一二世紀前半に成相寺住僧が極楽往生したとの情報が『後拾遺往生伝』に収録されたこととの間には関係があろう。
 庄園として扱われた石清水八幡宮の別宮の成立も一二世紀前半であると推定した。神門郡常楽寺に隣接する神西庄の成立が保安五年(一一二四)以前であることも前述の通りで、常楽寺の成立は一二世紀初頭ではないか。以上により、全てとは言わないが、寺社名を所領名とする庄園が一二世紀前半以降、急速に増加したと考えてよいのではないか。律令制の税配分システムの崩壊により経済基盤が弱体化した寺社への庄園寄進を、政府が認めたことにより、公家領庄園の増加に先立って、寺社領が認められたことと合致する。

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