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2020年1月19日 (日)

記事の補足2

 宝暦五年(一七五五)の下宇部尾村検地帳を閲覧した。御免屋敷には「一畝正法寺薬師堂敷」とあり、これが慶安三年の「道栄一間」を継承したものであろうか。慶安三年には面積ではなくすべて「一間」であったが、宝暦五年では「七畝庄屋」が最大で三畝が二、一畝が一であった。田畠の請人にも正法寺三筆がみえるが小規模な寺であったと思われる。慶安三年にみえた森山村万福寺も四筆みえる。神田一筆も同様であるが、これとは別に宮田八筆、堂田一筆もみえる。神田は森山村美保神社分であり、宮田が下宇部尾村横田神社分であろう。御免屋敷には横田神社はみえなかったが、このような形で経済基盤を確保したのであろう。
 大芦村と本庄村について『郡村誌』(松江市史近代史料編)で確認した。大芦村では瑞光寺の敷地が一反二畝六歩で最大で、次いで川辺神社の八畝一八歩である。大崎神社は六畝三歩、天満宮は一畝二七歩、宝寿寺は三畝である。本庄村では玉理寺二反二歩(村ノ西方)と熊野神社二反(村ノ東方)が広く、式内村社と表記のある川上神社は四畝一〇歩(村ノ中央)、本庄町の西側に隣接していた大通寺は一反四畝二三歩で、玉理寺と同様に真言宗に属した。本庄は待賢門院御願寺円勝寺領であったが、円勝寺は六勝寺の一つで、宗派を越えた寺院である。実質的には白河院に依存するところ大であったが、女院は次いで律宗寺院法金剛院を再興して御願寺とした。女院は法金剛院に隣接する真言宗寺院仁和寺の門跡で白河院の皇子である覚法法親王に帰依していた。その他、八幡宮九畝五歩(村ノ東南)、玉泉寺(清安寺庵室)三畝一九歩(村ノ中央)、延命寺(大通寺末)二畝(村ノ東南)であった。
   本ブログでは女院庁別当の実質的中心(事務局長)である持明院通基(一〇九〇~一一四八)が、出雲国が女院分国となった時代に北野天満宮に大芦浦を寄進したと考えている。通基の父で持明院を建立した基頼(一〇四〇~一一二二)は、能登守であった時期に同国菅原保を北野天満宮に寄進している。その寄進状(平安遺文一七三五)によると、国司補任を希望し、天満宮に参籠した際に、僧(曼珠院ヵ)から備前国菅原郷が御燈油料に宛られていたが、最近は勤めをなさず断絶状態で、そのため燈火にも事欠いていることを聞き、事が成就したら所領を寄進しようと思ったという。その後間もなく能登守に補任されたが、適当な所領がなく失念していたところ、夢想のお告げをうけたという。そこで、捜したところ、住人弘行が年貢を納め難い私領を基頼に寄せて来たが、その名が菅原保であったのも何かの縁であるとして、弘行の寄文を副えて、式部大輔菅原在良(一〇四一~一一二一、一一一一年に式部大輔補任、一三三〇年に従三位が贈られ、北野三位と呼ばれるようになった)を通して天満宮に寄進した。その面積は五〇町で、内訳は見(現)作二〇町、荒野三〇町であった。

 

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