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2020年1月19日 (日)

記事の補足3

 基頼は右大臣俊家の長子であったが家女房が母であったためか、異母弟である二男宗俊(一〇四六~九七、『中右記』の記主宗忠の父)と五男宗通(一〇七一~一一二〇)が共に正二位権大納言に進んだのに対して、正五位下中務大輔に留まり、受領を歴任した。通基は基頼五一才時の子であり、年齢の近い宗通の子達とともに育った。宗通は白河院近臣で、知行国も与えられており、所領相続で異母兄宗俊の子宗忠と対立したが、宗忠は白河院の没後に初めて、宗通の妻を訴えている(五味文彦氏による)。宗忠はより摂関家との関係が深かった。「通基」は父基頼と宗通から一字ずつ取った名であろう。ただし宗通の子が信通、伊通、季通、成通、重通と「通」の字を下に付けているのとは異なっている。待賢門院と夫である鳥羽院の近臣は重なっていることが多く、女院分国である出雲国の国守に起用された七歳の源光隆は女院庁と鳥羽院庁の両方のトップであった源能俊の子であった。そうした中、通基は正四位下大蔵卿にまで進むが、女院庁専属で、且つ、御願寺法金剛院の造営の中心であった。通基の因幡守在任は一一二六年から一一三三年にかけて、出雲国が女院分国であったのは一一三〇年から一一三八年にかけてであった。
 女院庁の事務局次長であったのが日野有信の子資光であった。資光が一一三二年に五〇才で死亡した際に、中御門宗忠はその死を惜しむコメントを『中右記』に記していたが、資光の娘が、女院女房阿波(女院の死後は崇德院女房から後白河院勾当に)で、その夫が崇德院の最側近日野資憲であった。資憲は有信の嫡子実光の長子であった。天養二年に資憲が出雲国揖屋社を崇德の御願寺成勝寺に寄進できたのは女院庁の事務局次長であった義父の実績を継承したからである。出雲大社領を崇德院庁に寄進して初代神主に補任されたのは内蔵(出雲)忠光であり、その子で頼朝の支援で神主に補任されたのは資忠であった。また、資光の死後、事務局次長とよぶべきは、池禅尼の同母弟であろう藤原宗長であり、宗長は女院分国となった和泉国と石見国の国守となった。

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