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2020年1月

2020年1月29日 (水)

志々塚保をめぐって

 斐伊川の東流の問題で、寛永末の洪水で上鹿塚村で堤防が決壊したことを明らかにしたが、その前身である志々塚保は文永八年では田数二〇町七反の公領で、地頭は持明院殿(室町院。その死後、後深草院の子伏見院が継承し、持明院統という名称が定着)であった。それに対応して、一四世紀初めの室町院領目録には、武家所進地頭職の仲に志々塚上方と下方が林木庄、吉曽名(古曽志)庄、母里庄とともにみえている。文永八年以前に志々塚保地頭職は守護佐々木氏領となり、室町院に寄進されたが、室町院に寄進されたのは得分であり、実際の支配は佐々木氏が行っていた。それゆえ、乾元二年四月一一日に守護によってその一部が鰐淵寺南院薬師堂修理料田として寄進された。残っているのは沙弥信連・沙弥良恵連署坪付のみであるが、同日に北院三重塔修理料田として寄進された生馬郷内田一町と同様の寄進状によるものであった。鰐淵寺南院と北院はそれぞれ独立した寺院であったため、文書も別々に保存されたため、現時点の保存状況が違うのである。南院には寄進された料田の坪付のみ残り、北院には寄進状とそれに関連する前後の書状二通が残っているが、本来は守護佐々木貞清から料田に関する同様の文書が両院に発給されたはずである。
 文永八年の地頭は林木庄が深栖蔵人入道跡、古曽志郷が中村太郎馬允、母里郷が河内二郎・広四郎であり、これ以降に守護佐々木氏領となった地頭職が室町院の寄進され、林木庄、吉曽名庄、母里庄と呼ばれたものである。
 志々塚保の関連史料として、室町院領目録とともに、一四世紀中頃の①塩冶八幡宮領注文と②神主明仏譲状がある。ともに志々塚上分五反と林木東西分五反が神主分としてみえているが、①には「勘落」と記されている。②には塩冶高貞(近江守)と高貞滅亡後、新たに塩冶郷の支配者なった弟時綱(三州=参河守)からの寄進が記されており、志々塚上分と林木東西分は高貞以前の守護佐々木氏により寄進されたものである。志々塚保については前述のとおりだが、林木庄も元応二年六月廿五日関東下知状で、持田庄地頭土屋忠時から大野庄内の名田を譲られた息女平氏に「前林木女」との注記がある。その意味は、忠時娘が文永八年に林木庄地頭であった深栖氏のもとに嫁いだが、その後、深栖氏が林木庄地頭職を失ったことを意味している。それが守護佐々木氏領となり、その一部が塩冶八幡宮の料田に寄進されたものである。
 これに対して生馬郷の関連史料としては元応元年閏七月九日六波羅御教書がある。『大社町史』並びに『松江市史』史料編では関東御教書としているが、連署している陸奥守北条維貞と前越後守北条時敦は六波羅探題北方と南方であり、訂正しておく。『鎌倉遺文』の文書名を検討することなくそのまま使用したものである。自身が単独で担当した『竹矢郷土誌』の中世の項でも同様の誤りをしているが、今回は編纂所データベースで両者の他の文書の花押と一致することを確認した。出雲国知行国主左大臣洞院実泰の雑掌重氏が、塩冶・巨曽石(古曽志)・美保・生馬郷等の下地と年貢について訴えたのを受けて、探題が守護貞清に代官を出頭させ明申すよう命じている。文永八年に守護領であった塩冶・美保郷に対して巨曽石・生馬郷も守護領となっていることがわかる。

 

 

2020年1月27日 (月)

嘉応元年の播磨守?3

 出典は『兵範記』であるが、たまたま最近、増補史料大成本五巻中、第二巻を除く四巻を入手したので確認した。『兵範記』は戦前の二巻本を国会図書館デジタルで閲覧できるが、収録されているのは保元三年末までである。大成本は戦後の刊行であり、著作権の関係で個人宅のパソコンでは閲覧できない。第一巻は国会版とだぶるが、今回ほぼ新品状態のものを入手した。大成版第三巻は保元三年から始まっており、これで未活字部分を除けば確認できるようになった。歴史資料を専門とする業者ではなく、五冊中一冊がないことで破格の値段となった。平成一〇年版で五冊セットで二七〇〇〇円(税別)であったが、届いた本には八〇〇〇円の値札が付いていた。それでも売れなかったためか、半額の四〇〇〇円で購入できた(税込、送料別)。閲覧するには非破壊型スキャナーでデジタル化した方が便利であり、機会をみて行いたい。
 ということで当該部分をみると、八幡臨時祭の記述であったが、その中で天治二年(一一二五)の先例が引用され、そこに「播磨守基隆」とあった、嘉応三年ではなかったのである。表の作成者は飯田悠紀子氏であるが、なぜ勘違いしたのか不明である。念のため天治二年の播磨守を確認してまたびっくり。播磨守は基隆ではなく、藤原家保であり、基隆は当時伊予守であった。基隆が播磨守であったのは保安二年(一一二一)途中までであった。「大治二年」を写し間違えたかとも思ったが、その年も播磨守は家保であった。「嘉応元年の播磨守は不明である」、ただそれだけの確認のため書き始めたが、途中では過去に述べた事だけでなく、新たな事実にも気づかされた。なお、天治二年はまとまった形の日記が残って居らず、空白の年次でもある。『大日本史料』の概刊分は保安三年正月から四月までを収める第三編之二九であるが、保安二年正月以降を収め第三編之二五が刊行された二〇〇二年の一二年後である。当該巻の予想刊行年次は二〇五〇年頃であろうか。
 『大日本史料』も紙媒体でなくなれば、刊行のスピードは上昇し、過去の補遺の追加も楽になるような気がする。一定の会費を払えば閲覧可能とした方がベターか。現在は各巻の最新刊のみは閲覧ができないという形で売り上げに配慮しているのだろうが、紙媒体でなければという人がいるのだろうか。それは論文集も同様であろう。特に複数の執筆者の論文を収めた記念論集の場合、所蔵館での複写は一本の半分までで、不便なことこの上ない。出版社側の事情もあろうが、一定の負担で論文毎に閲覧・ダウンロードできる仕組みができればと思う。

嘉応元年の播磨守?2

 保元の乱後には平清盛が播磨守となり、次いで保元三年に清盛が大宰大弐に遷任すると信西の子成範がその後任となった。平治の乱後、播磨守に補任されたのは藤原成親の異母兄家明であった。鳥羽院近臣家成と高階宗章の娘との間に生まれたのが、隆季・家明兄弟で、成親・家教・盛教・実教の母は藤原経忠の娘であった。宗章と経忠は白河院の近臣で、その没後は鳥羽院・待賢門院並びにその子崇德天皇と密接な関係を有した。経忠とその子については「鳥羽院の高野詣」で述べた。宗章は父為章のあとを継承するかのように越中・若狭・遠江・加賀守を歴任し、鳥羽院政四年目の長承元年に加賀守を辞任することで嫡子盛章を越前守とした。盛章も同様に越前に続き土佐・伊予・尾張・遠江守を歴任して、遠江守在任中の保元元年閏九月に死亡した。その嫡子隆行は鳥羽院判官代をへて父が死亡した翌年である保元二年一〇月に一六才で従五位上に叙されているが、その後の史料は確認出来ず、早世した可能性がある(訂正:応保二年三月一九日には立后した藤原育子の中宮権大進に従五位上高階隆行が補任され、仁安三年九月一八日の禊行幸に正五位下高階隆行が供奉。嘉応元年二月一三日の皇太后宮日吉行啓にも随行。)。その姉妹は美福門院の子八条院の女官三位局であり、以仁王の妻となった。王の死後は九条兼実との間に良輔を産んでいる。藤原隆季の母は盛章の姉妹であり、隆季は三位局の従兄弟であったが、信西とその子達が失脚したことと、平清盛の娘を妻としたことで、平治の乱後は急速に出世し、その一方で嫡子隆房と庶子隆保・隆清を国司として二〇年以上にわたって因幡国知行国主を務めた.因幡国の長田実経が平家に同心しながらも、父資経が伊豆国に配流される頼朝に一族の資家を同行させた功により、頼朝から本領安堵を受けた事とその背景については前述の通りである。
 話を播磨国に戻すと、隆季の一才下の同母弟家明は正五位下、従四位上、正四位下に暲子内親王(後の八条院)給で叙されているように、美福門院に接近することで昇進し、播磨守に補任されたが、その後播磨国は応保二年(一一六二)に藤原忠通の子基房の知行国となり、摂関家家司として知られる藤原邦綱が国守に補任され、次いで永万元年(一一六五)には藤原隆教の子隆親に代わった。隆教の姉妹が基房の異母兄基実の妻となり、永暦元年(一一六〇)には嫡子基通が生まれている。このような中、隆親も摂関家との関係を強めたのであろう。問題はその後一〇年間で、播磨守は不明である。一方、「知行国主・国守一覧」(『中世史ハンドブック』)では、嘉応元年三月一四日に某基隆の播磨守見任を示す史料があるとするのである。

嘉応元年の播磨守?1

 院政期の播磨守といえば、伊予守、讃岐守と並んで有力院近臣の指定席として知られている。しかし、よくみるとそれは白河・鳥羽院政期の事で、後白河院政期には状況が一変している。なにより、「国司一覧」(『日本史総覧』)では仁安三年(一一六八)三月八日から治承二年(一一七八)閏六月七日までの間、誰が播磨守か不明である。
 後白河院政期初期は藤原信西とその子達が弁官と受領の要職を占め、それが要職から排斥された公卿の反発を生み、平治の乱が起こり、信西の子達は一時的に失脚した。その後、復帰した子もあったが、失脚前とは状況は一変した。反発した公卿の中でも、待賢門院との関係を有した人々が最も不満を抱いていた。それらの人々の中には近衛天皇・美福門院との新たな関係を獲得した人と、そうでない人々がおり、後者にとっては、崇德院政の実現に期待するところ大であったが、保元の乱で復権の機会は一旦失われた。
 前述のように、近衛の即位そのものに反発したのではなく、その際に待賢門院に仕えていた人々の一部が天皇を呪詛したとの容疑をでっちあげられたことに反発したのである。即位の年の年末の行事をサボタージュしたのは異母弟でありながら西園寺通季との関係の深かった季成ら閑院流の一部の人々で、半年間にわたる停任処分を受けた。次いで、その処分が解除される時期に行われた行幸でもサボタージュした人々がいた。停任という重い処分を受けた藤原忠隆の嫡子隆教は三ヶ月の処分解除後ままもなく死亡している。隆教の母の栄子は藤原顕隆の娘で崇德天皇の乳母であった。保元の乱の前後から台頭した異母弟信頼の母は、顕隆の嫡子顕頼の娘であった。軽微なものであったが、隆教とともに、平忠盛の嫡子家盛や藤原家成の嫡子隆季も処分されている。家盛はその後、久安五年に鳥羽院の熊野詣に参加して体調を崩して死亡した。元木泰雄氏は隆季が左馬頭を長らく務めたことを評価するが、家成の嫡子としてはその昇進は十分とはいえなかった。保元元年には乱の恩賞で左馬権頭に補任された義朝が、不満を示したことにより、隆季を左馬頭から辞任させ、義朝を補任した。これに対して後白河天皇のもとで、信頼のあとを追うように台頭したのが隆季の異母弟成親であった。成親の同母弟盛頼は尾張守在任中に、平治の乱で死亡した源義朝の墓の維持に便宜をはかったとして、幕府成立後の頼朝の支援を受けて所領を得ているが、盛頼の背後には兄成親の意向があった。父家成、母方の祖父顕頼はともに待賢門院と深い関係を有していた。政治史の通説では二人とも美福門院派に鞍替えしたとするが誤りで、両方との関係を維持した。近衛天皇が死亡するまでは、まもなく崇德院政の時代が来ると多くの人は思っていた。崇德が主宰する歌会に成親の異母兄隆季が参加していたことも前述の通りである。家成と顕頼は崇德院の御願寺成勝寺に所領を寄進していた。藤原清隆も成勝寺造営の中心であり、その六才下の同母弟範隆(長承二年死亡)も清隆とともに待賢門院庁の中心メンバーであった。

 

2020年1月26日 (日)

大芦浦について10

  大芦についてはその後、県立図書館所蔵の「享保十二年(一七二七)大芦浦神社指出」(『近世筆写編』253)と「寛政四年(一七九二)島根郡西組村々萬差出帳」を閲覧した。前者は蔵書検索ではヒットせず、他の史料を閲覧する中で偶然遭遇した。後者は過去に人口データと差別の問題について考えた際に利用したのを思い出して、再確認した。東組分については残っていない。
 北垣の国主大明神と小具の母坂大明神の棟札が掲載されていたが、前述の「目録」と「由緒書」のものと一部表記の違いはあるが、基本的には同一のものであった。国主大明神が再創立されたとする寛永六年の約一〇〇年後のものであり、母坂大明神が延宝六年に再創立されたことを含め、事実としてよかろう。
 戦国期には大芦浦と加賀浦の貫高にはさほど差が無い(合計三〇〇貫)ことを述べたが、寛文一二年の大芦浦の石高が五六九石余であったのに対し、翌年の加賀浦の石高は五一〇石余であった。前者は検地帳が残っており、後者は残っていないが、いすれもそれ以降検地がなされなかったため、西組差出帳にその数値が引用されていた。なお、大芦の検地帳は大芦村役場所蔵本から写した抄本が県立図書館に所蔵されているが、松江市史編纂室で、地元の庄屋の家にも完本が残っていることを教えていただいたので、近いうちに所蔵者に連絡して調査したい。役目屋敷(御免となる庄屋等一部の屋敷を除いたもの)の数も大芦が三六(年寄二、百姓三四)、加賀が三五(年寄三、百姓三二)、人口は大芦が一二三一人、加賀が一二四二人とほぼ同規模である(いずれも寛政四年)。ただし明治九年には大芦が一二七五人に対し、加賀が一四八〇人と少し差がついている(『郡村誌』)。
 享保一二年指出には、大芦浦の享保四年天頭天王社棟札、元禄一五年弁才天社棟札、正徳二年熊野権現社棟札、貞享五年日御崎大神宮社棟札も引用され、荒神が七ヶ所あったことも記されているが、寛政四年差出では、天王、上将軍、下将軍、日御崎、熊野神社、弁才天は末社と記されている。また、国主大明神社の敷地が一間四方、母坂大明神社が五尺×六尺。天神社が㈡尺×三尺と記され、国主大明神が本来最も規模が大きかったことがわかる。
 大芦浦、加賀浦とも漁業と海運業に従事する人がいたが、大芦浦は隠岐国の牛皮を運ぶ船持がいたことも前述の通り。それとの関係は不明だが、牛馬の数をみると、出雲国の郡レベルでは牛の数が馬の四倍以上である。ただし流通の拠点となる町では馬の数が明らかに多い。隠岐の島前(本来は道前が正しい)では牛馬の差がほとんどなく、道後では牛が馬の1.4倍程度で、ともに馬の占める割合が大きい。一般の村では牛はほとんど「こととい」(牡牛)であるが、加賀浦では牡牛一頭、「うなめ」=牝牛六二頭と対照的である。これが大芦となると、牡牛73頭と牝牛六五頭である。その背景についてはデータが少なく不明である。牡牛は耕作での利用であろうが、牝牛は何であろうか。大芦は検地帳によると浦の割には田数もあり、且つ等級の髙い上々田、上田の割合が高かったことと牡牛の多さと関係があろうか。


 

2020年1月25日 (土)

藤原有定・有隆父子7

 日野資憲の未確認史料一点を確認したことをうけて可能な範囲でさらに探してみたところ、日野有隆の史料を一点確認できた。有隆が待賢門院別当(判官代から昇進)日野資光ならびに崇德天皇との関係を有していたことの傍証となるものである。出典は藤原為隆の日記『永昌記』保安四年一〇月一五日条であるが、これは活字本やその他の写本(群書類従も含む)としては確認できない。崇德天皇の大嘗会御禊に関するものであり、そうした儀式の記録をまとめた記録に収録されているものであろうが、現時点では特定できていない。『日本史総覧』作成のため、戦前作成された史料稿文である(『大日本史料』の未公刊部分について、検索で確認できる。現在の刊行済は三編二九冊に保安三年四月までで、第二九冊にも有隆の関係史料が一点収録)。そこでは複数の史料から関係する部分が抜き出されているが、有隆は大嘗会御禊次第司の判官の一人であった。他の引用史料では、長官と次官のみ実名が記され、判官は服装のみ詳細に記されている。
 大嘗会御禊とは即位後初の大嘗祭のための潔斎として、天皇が川へ行幸して身を清める禊(みそぎ)の儀式で、即位時に用いる旗のもとで全体を統括する「節下大臣」は右大臣兼左大将藤原家忠、賽の河原(鴨川)で行う禊祓の場所の選定と設営を担う装束司は権中納言藤原顕隆、その際の前陣と後陣の行列を奉行する次第司(三位相当)は権中納言藤原実行(前)と参議兼右中将源師時(後)、女御の代わりを務めたのは「右大臣養子〈実大納言経実卿女〉」とあるが、経実の娘(母は待賢門院の同母姉で、同母兄が経宗)で内大臣源有仁の養女となっていた八才の懿子であろう。懿子は後に崇德の弟雅仁(後白河天皇)との間に守仁(二条天皇)を産んでいる。いずれも、崇德の母待賢門院と関係の深い人物である。
 前後次第司の次官(五位相当)が式部権少輔日野資光(前)と兵部少輔平知信(後)、判官(六位相当)が式部丞有隆・中務丞□隆(前)と民部丞公長・広兼(後)であった。資光(父有信)と有隆(父有定)は従兄弟であるとともに、式部省の同僚(上司と部下)であった。有隆の姉妹が資憲の母であったことは前述の通りである。石見国長野庄は、待賢門院領として寄進・立券後、領域を拡大して第二次の寄進・立券が行われ、崇德院庁分領となったというのが本ブログの説である。御願寺である成勝寺の庄園は保元の乱による没収は免れたが、崇德院庁分(明記された庄園は確認できない)は没収されたはずである。そしてそれが為に崇德院の除霊が行われるようになると、後白河院によってその一部が粟田宮社領とされた。出雲国杵築大社領も庁分領であったと思われるが、その後賀茂斎院領となったため、粟田宮社領にはされなかった。有隆の子(資憲と同世代の従兄弟)については系図には父有隆が仕えた源有仁の勾当となったことが記されるが、その一方で、崇德院との関係を有した可能性は大きく、それがゆえに、長野庄の第二次立券の参加者であった国兼(安富郷下司、その養子宗兼も得屋郷下司)を有隆の子とする系図が後に作成されたと思われる。

2020年1月21日 (火)

鳥羽院の高野詣

 治天の君である院が行った熊野・高野詣はよく知られているが、とりわけ熊野詣は白河・鳥羽・後白河・後鳥羽院が計九七回行ったとされる。保安元年(一一二四)一一月には熊野詣から帰った白河院が、藤原忠実の内覧を停止し、勅勘処分を下した。その背景には鳥羽天皇への忠実の娘勲子の入内問題があったとされる。
 保安四年に子崇德が天皇に即位したことで、二一才の鳥羽上皇は新院と呼ばれるが、翌天治元年一〇月二一日から一一月二日にかけて初の高野詣を行っている。その様子は閑院流藤原実行(待賢門院の異母兄、三条家)の日記により知る事ができる。右大臣花山院家忠以下の公卿と院近臣が扈従し、検非違使源為義が供奉している。時の出雲守は藤原憲方で父為隆が知行国主であったが、両人とも白河院とともに都の留守を守っていたと思われる。夜の関白と言われた為隆の同母弟顕隆も同様であったが、その嫡子で出雲守経験者であった権右中弁顕頼は扈従している。大治三年末に為隆・憲方父子と相博する藤原基隆・経隆父子は周防守と知行国主であったが、大膳大夫基隆が扈従している。
 その参加メンバーで目立つのは正月に従三位に叙せられ公卿となった藤原経忠とその子三人(右馬頭忠能、民部少輔経親、中務少輔経雅)が扈従していることである。経忠は師信の子であるが、師信は寛治五年には内蔵頭に加えて播磨守を兼ね、同七年には殿上人となり、白河院最愛の娘郁芳門院の院庁別当ともなっている。子経忠は堀河天皇の外戚である閑院流藤原氏公実の娘実子をその室としている。実子は待賢門院璋子の同母姉で、堀河と公実の同母妹の間に宗仁(鳥羽)が生まれると乳母となっている。前述の忠能・経親・経雅はいずれも実子を母とする。経親と経雅の間には同母兄弟信輔がおり、新院殿上人であったが、今回は扈従していない。他の兄弟と異なり、その名は父経忠ではなく祖父師信から一字を取っている。四人の中では子孫が最も繁栄し、坊門家と水無瀬家が生まれている。また同母かは不明だが経忠娘が鳥羽院近臣藤原家成との間に生んだのが、鹿ヶ谷の陰謀で処刑された成親である。
 叙爵前の扈従メンバーの中に「六位蔵人蔭子藤原資憲」の名もみえている。以前に述べた際には大治二年正月に蔵人となっていることが確認できるとしたが、二年余り早まることが確認できた。母親が従姉妹である源為義(母は日野有綱の娘)は永長元年(一〇九六)の生まれであるが、資憲(有綱の同母弟有定の娘が母で、父は有綱・有定の同母兄有信の嫡子実光)もほぼ同時期の生まれである可能性が大きくなった。異母弟資長と同じく一八才で蔵人に補任されたとすると、資憲は永長二年以前の生まれとなる。

 

2020年1月20日 (月)

寺社名の付いた所領2

 二〇一二年に「寺社名の付いた所領1」をアップしたまま、放置していたが、ようやく「2」をアップする。
 建長元年注進状には、布施社、静雲寺、智伊宮(知伊社)がみえており、公領として扱われていたが、一方で、石清水八幡宮の別宮は庄園として扱われている。また、末次保は建長二年一一月の九条道家惣処分帳(九条家文書)では新御領の中にみえ、九条家家司でもあった藤原長倫が寄進したことが記されている。長倫は建仁元年正月に出雲権介に補任されており、これが末次保を獲得するきっかけとなり、承久の乱後に家司を務めていた九条家に寄進したと思われるが、それでも庄ではなく保と表記されることがあった。応保元年(一一六一)に左近衛府領であった母里庄は公的性格が強かったと思われ、文永八年には母里郷と公領としてみえている。一四世紀初めの室町院領目録には「母里庄」とみえるが、これは公領から庄園に変更されたものではなく、母里庄地頭職が武家(おそらくは守護佐々木氏)により室町院に寄進されたものである。
 寺社名の付いた所領とは別に、保として能義郡の真(実)松保・舎人保・井尻保・比知良保、意宇郡の乃木保・忌部保・大庭田尻保、島根郡の末次保・枕木保、秋鹿郡の岡本保・楯縫郡の小境保・佐香保・平田保、出東郡の福富保・志々塚保・波根保・吉成保、神門郡の恒松保である。四〇町近い大庭田尻保はあるが、田数二〇町未満が一八保中一〇と半数以上あり、且つ中山間地のみを郡域とする仁多郡、飯石郡、大原郡には一ヶ所もなく、平野部に限られている。能義郡赤江郷はその税が掃部寮に納入される便補保であった時点では赤江保と呼ばれていたし、石坂郷も石清水八幡宮領であった時点では石坂保と呼ばれていた。大庭田尻保は伊弉冉社(神魂神社)、枕木保は華蔵寺との関係が深く、平田保は水運の拠点である平田津(この呼称は確認できないが)との関係が深い。建長元年注進状には平田保、赤江郷(保)、福富保、舎人保、岡本保、真松保、波根保、吉成保、佐香保、恒松保の一〇保が相撲役を勤めており、公領として扱われている。
 寺社名の付いた所領と保は、その年貢等が特定の用途に宛てられた所領ではなかったか。そして別宮や末社のように庄園として扱われた所領もあったが、多くは公領として扱われた。ここで問題とするのはその成立時期である。島根郡枕木保については、一二世紀前半に周辺が待賢門院御願寺円勝寺に寄進される前に成立していたことが明らかである。秋鹿郡内成相寺も佐陀社が鳥羽天皇の持仏堂安楽寿院に寄進・立券される前に成立していたと考えられる。この点と一二世紀前半に成相寺住僧が極楽往生したとの情報が『後拾遺往生伝』に収録されたこととの間には関係があろう。
 庄園として扱われた石清水八幡宮の別宮の成立も一二世紀前半であると推定した。神門郡常楽寺に隣接する神西庄の成立が保安五年(一一二四)以前であることも前述の通りで、常楽寺の成立は一二世紀初頭ではないか。以上により、全てとは言わないが、寺社名を所領名とする庄園が一二世紀前半以降、急速に増加したと考えてよいのではないか。律令制の税配分システムの崩壊により経済基盤が弱体化した寺社への庄園寄進を、政府が認めたことにより、公家領庄園の増加に先立って、寺社領が認められたことと合致する。

2020年1月19日 (日)

記事の補足5

 持明院家行の嫡子家定は幕府と朝廷の両方に仕え、幕府評定衆二階堂基行(尊卑分脈が隠岐守頼行とするのは時代が合わない点については前に述べた)の娘を妻とし、その間に生まれたのが、長海本庄地頭基盛であった。基盛は関東御領丹波国大沢庄の地頭兼預所でもあったが、これは母から譲られたものであった。
 基盛が地頭であった長海本庄の支配を担ったのは守護佐々木泰清であったこ思われ、それがゆえに泰清は本庄で死亡した。その孫である守護貞清も本庄に関わったため、その霊神が八幡宮の祭神となったのであろう。貞清の時代には出雲国内の守護領が祖父泰清の時代(文永八年結番帳)の倍以上に拡大している。塩冶氏の初代とされる父頼泰の存在感は乏しいが、貞清の姉妹(一般的には娘とされるが、それでは泰孝との世代差が二代となり、物理的に成り立たないである)が国造泰孝の室となり、夫の死後は後家として国造後継者の決定を委ねられた覚日である。その祖父泰清の法名は泰覚、父頼泰の法名は覚道、甥の高貞の法名は頓覚であったが、貞清の法名は不明である。頼泰の法名が「~覚」ではなく「覚~」なのはその置かれた位置を示している。
 泰清の子は太郎義重が光得、嫡子次郎時清が阿清、四郎義泰が義覚、五郎茂清が覚清、六郎基顕は不明(幕府引付衆後藤氏を継承)、七郎頼清は十仏(湯氏を継承)、八郎宗泰は覚念、九郎義信は本仏である。義重の母は不明、時清の母は大井太郎朝光(小笠原氏一族)娘であるが、頼泰から宗泰までは葛西清親娘、義信は不明である。ここからすると、嫡子で幕府評定衆となった時清に次ぐのは富田庄を譲られた義泰とすべきであろうか。義泰の嫡子師泰は「如覚」、その弟六郎頼秀の嫡子高泰は覚照(南浦に関して述べた)であった。覚照は師泰の嫡子秀貞のもとで美作守護代を務めたが、秀貞の法名は不明。秀貞の嫡子直貞は尊覚である。頼泰の嫡子貞清については法名ばかりか妻の情報がないが、時清の娘であれば、貞清が祖父の後継者となったことが理解できる。高貞の母は「二郎左衛門女」とあるが時清は隠岐守、二郎左衛門尉でもあり、その子宗清の娘か。この点については以前述べたこともあったが、有力な説となろう。あまりに話が広がったのでひとまず終わりとする。
(補足)貞清の法名は永享五年一二月日鰐淵寺三長老紛失状の中で「了道」と記されている。形の上では父頼泰の「覚道」を受けた形となっている。高貞の母についても、時清娘を時清の嫡子宗清娘に修正。

 

記事の補足4

 話を本庄に戻すと、神社明細帳によると、八幡宮は誉田別命とともに、佐々木貞清霊神を祭神としていた。明治四二年には熊野神社に合併されている。『郡村誌』には「村ノ東南」となったが、本庄町の西側で、熊野神社に隣接した地にあった。佐々木貞清は頼泰の嫡子で出雲守護となるとともに、近江守にも補任されている。その名と官職は父頼泰ではなく、祖父で本庄で頓死したとされる泰清を継承している。長海本庄は待賢門院御願寺円勝寺領であったが、文永八年の地頭は将軍側近の持明院基盛であった。持明院氏は不遇な時代の後高倉院(後鳥羽院の同母兄守貞親王であったが、平家の都落ちに同行させられたため、都に残った後鳥羽が安徳天皇に代わる天皇となった。後鳥羽を養育していたのは、藤原範季とその妻平教子であったが、教子は日野資憲の娘と平教盛の間に生まれていた)を支え、院は持明院基家(通基の子)の娘を妃として持明院(通基の父基頼の御堂を通基が整備)を御所として「持明院宮」と呼ばれていた。
 承久の乱で後鳥羽院が隠岐に配流され、後高倉院の実質的院政が開始されたが、知行国主源有雅が御鳥羽側近で、守護安達親長も京方であった出雲国は有力在庁官人や庄官が京方で没落し混乱状況となった。その際に後任の出雲国知行国主となったのは持明院家行(基家の孫)であり、家行は守護佐々木義清を出雲守に起用して体制の整備を行った。基家の兄で通基の嫡子となった通重が早世したため、その嫡子一条能保は出世が遅れていたが、その間に同じ待賢門院・崇德院流の一員である源義朝の遺児坊門姫を妻としていた。すると、妻の同母兄頼朝が鎌倉幕府を開いたため、能保は幕府との関係を背景に、従二位権中納言にまで進んだ。持明院家行は後高倉院に近いだけでなく、一条氏を通じて幕府とのパイプを有していた。一条氏は能保の嫡子高能が早世し、その兄弟尊長は承久の乱の首謀者の一人となり、高能の子には京方となった人物もいたが、北条時房の娘を妻としていた嫡子頼氏は乱の際には京都を脱出して鎌倉に逃れ、事態の報告を行っている。

 

記事の補足3

 基頼は右大臣俊家の長子であったが家女房が母であったためか、異母弟である二男宗俊(一〇四六~九七、『中右記』の記主宗忠の父)と五男宗通(一〇七一~一一二〇)が共に正二位権大納言に進んだのに対して、正五位下中務大輔に留まり、受領を歴任した。通基は基頼五一才時の子であり、年齢の近い宗通の子達とともに育った。宗通は白河院近臣で、知行国も与えられており、所領相続で異母兄宗俊の子宗忠と対立したが、宗忠は白河院の没後に初めて、宗通の妻を訴えている(五味文彦氏による)。宗忠はより摂関家との関係が深かった。「通基」は父基頼と宗通から一字ずつ取った名であろう。ただし宗通の子が信通、伊通、季通、成通、重通と「通」の字を下に付けているのとは異なっている。待賢門院と夫である鳥羽院の近臣は重なっていることが多く、女院分国である出雲国の国守に起用された七歳の源光隆は女院庁と鳥羽院庁の両方のトップであった源能俊の子であった。そうした中、通基は正四位下大蔵卿にまで進むが、女院庁専属で、且つ、御願寺法金剛院の造営の中心であった。通基の因幡守在任は一一二六年から一一三三年にかけて、出雲国が女院分国であったのは一一三〇年から一一三八年にかけてであった。
 女院庁の事務局次長であったのが日野有信の子資光であった。資光が一一三二年に五〇才で死亡した際に、中御門宗忠はその死を惜しむコメントを『中右記』に記していたが、資光の娘が、女院女房阿波(女院の死後は崇德院女房から後白河院勾当に)で、その夫が崇德院の最側近日野資憲であった。資憲は有信の嫡子実光の長子であった。天養二年に資憲が出雲国揖屋社を崇德の御願寺成勝寺に寄進できたのは女院庁の事務局次長であった義父の実績を継承したからである。出雲大社領を崇德院庁に寄進して初代神主に補任されたのは内蔵(出雲)忠光であり、その子で頼朝の支援で神主に補任されたのは資忠であった。また、資光の死後、事務局次長とよぶべきは、池禅尼の同母弟であろう藤原宗長であり、宗長は女院分国となった和泉国と石見国の国守となった。

記事の補足2

 宝暦五年(一七五五)の下宇部尾村検地帳を閲覧した。御免屋敷には「一畝正法寺薬師堂敷」とあり、これが慶安三年の「道栄一間」を継承したものであろうか。慶安三年には面積ではなくすべて「一間」であったが、宝暦五年では「七畝庄屋」が最大で三畝が二、一畝が一であった。田畠の請人にも正法寺三筆がみえるが小規模な寺であったと思われる。慶安三年にみえた森山村万福寺も四筆みえる。神田一筆も同様であるが、これとは別に宮田八筆、堂田一筆もみえる。神田は森山村美保神社分であり、宮田が下宇部尾村横田神社分であろう。御免屋敷には横田神社はみえなかったが、このような形で経済基盤を確保したのであろう。
 大芦村と本庄村について『郡村誌』(松江市史近代史料編)で確認した。大芦村では瑞光寺の敷地が一反二畝六歩で最大で、次いで川辺神社の八畝一八歩である。大崎神社は六畝三歩、天満宮は一畝二七歩、宝寿寺は三畝である。本庄村では玉理寺二反二歩(村ノ西方)と熊野神社二反(村ノ東方)が広く、式内村社と表記のある川上神社は四畝一〇歩(村ノ中央)、本庄町の西側に隣接していた大通寺は一反四畝二三歩で、玉理寺と同様に真言宗に属した。本庄は待賢門院御願寺円勝寺領であったが、円勝寺は六勝寺の一つで、宗派を越えた寺院である。実質的には白河院に依存するところ大であったが、女院は次いで律宗寺院法金剛院を再興して御願寺とした。女院は法金剛院に隣接する真言宗寺院仁和寺の門跡で白河院の皇子である覚法法親王に帰依していた。その他、八幡宮九畝五歩(村ノ東南)、玉泉寺(清安寺庵室)三畝一九歩(村ノ中央)、延命寺(大通寺末)二畝(村ノ東南)であった。
   本ブログでは女院庁別当の実質的中心(事務局長)である持明院通基(一〇九〇~一一四八)が、出雲国が女院分国となった時代に北野天満宮に大芦浦を寄進したと考えている。通基の父で持明院を建立した基頼(一〇四〇~一一二二)は、能登守であった時期に同国菅原保を北野天満宮に寄進している。その寄進状(平安遺文一七三五)によると、国司補任を希望し、天満宮に参籠した際に、僧(曼珠院ヵ)から備前国菅原郷が御燈油料に宛られていたが、最近は勤めをなさず断絶状態で、そのため燈火にも事欠いていることを聞き、事が成就したら所領を寄進しようと思ったという。その後間もなく能登守に補任されたが、適当な所領がなく失念していたところ、夢想のお告げをうけたという。そこで、捜したところ、住人弘行が年貢を納め難い私領を基頼に寄せて来たが、その名が菅原保であったのも何かの縁であるとして、弘行の寄文を副えて、式部大輔菅原在良(一〇四一~一一二一、一一一一年に式部大輔補任、一三三〇年に従三位が贈られ、北野三位と呼ばれるようになった)を通して天満宮に寄進した。その面積は五〇町で、内訳は見(現)作二〇町、荒野三〇町であった。

 

記事の補足1

 県立図書館の資料を検索していて「大工屋家家系々図各代略伝控」(北野長太郎編)がヒットしたので、確認した。そこでは、大芦浦で船大工を代々務めた北野氏の初代となる人物が一八世紀中頃に大社から移ってきたことが述べられていた。ただし、実際には大社から入り、現地の北野姓の女性の婿入りをした可能性が高い。北野氏については、天保一五年(一八四四)正月牛皮約定手形が残っている。隠岐は現在でも隠岐牛が特産であるが、近世初期には播磨国の業者が定期的に訪れ、牛皮を持ち帰っていた。その後も牛皮が利益を生む特産品であったことはわかるが、流通に関する具体的史料を欠いていた。それが播磨国の業者に文書が残っていた。一九九一年発行の『ひょうご部落解放』で安達五男氏が紹介しているが、人権の問題に配慮して、具体的郡名や家名はぼかした表現となっている。最近の刊行物では状況が変わっているようだが、ここでも必要最小限の情報にとどめて説明する。ままあるのが、地元の資料では配慮しつつ、県外の資料ではそのまま記すというものであるが、問題がないわけではない。『松江市史』でも中世・近世と近代(一部の人名には配慮)では扱いが少し違っている。国立公文書館の規定では、百年未満のものは、差別にかかわる情報(病歴、刑歴など)では配慮することとなっているが、実際には状況に応じた判断(多くの場合はより慎重な)が必要である。一五年ほど前に埼玉県文書館を訪問した際には、差別に関する記述を含む資料の閲覧が請求された際には、そのことを閲覧者に説明し、その上で閲覧を希望する場合は、さらに説明した上で、閲覧を許可し、その後の扱いについても配慮を求めるとのことであった。京都府立総合資料館でもその問題につき質問したが、それとともに、地域の関係資料の寄託を広く行っていることを知った。その次の段階で所蔵者の同意が得られれば、寄贈や購入に進むようだ。島根県では「本来の文書館」がないため、次々と重要な資料が流出したり、保存状況の悪化で閲覧不能となっている。
 話を戻すと、大芦浦の南屋友五郎が、隠岐で加工された牛皮と馬皮三五〇枚の播磨国への輸送を請け負ったものである。「男重馬皮入で、角爪は残っていない」との注記があり、その状態までは現地で加工済みである。現地の人々か、播磨国の人々かは判断する情報がない。代金は前金で受け取っており、すぐにでも隠岐に船を派遣すべきであるが、「風悪敷」渡海が困難なので、四月中旬までには播磨国へ届けることを約束している。『島根町誌』で確認すると、楡木の船持に南屋がみえ、北野氏の一族であった。嘉永三年九月にも南屋愛助が牛皮一九〇枚の輸送を請け負っているが、「貴殿買入荷物」とあり、播磨国の業者が買い付けたものの輸送を請け負っていた。ここではすでに南屋に荷物はあるが、「風波悪敷」く出帆は困難なので、順風次第早急に送ることを約束している。ただし、その後の文書をみると、嘉永六年一一月の時点でも届いておらず、播磨の業者が訴えている。そのため、関係文書が残ったともいえる。ちなみに、活字資料では「大芦浦槍木村」とあり、この資料を知った当時は気づかなかったが、「楡木村」が正しい。

 

2020年1月18日 (土)

二つの横田神社5

 長海庄は一二世紀前半に待賢門院の御願寺円勝寺領として寄進・立券された広大な荘園で、その南端が「上宇部尾」、東北端が「下宇部尾」であった。南浦は長海庄分(下宇部尾)と美保郷分(森山)に分割されたと思われる。荘園と公領に分かれたとはいえ、両者の関係は継続し、それを示すのが両社の境界付近にあった美保神社と横田神社への信仰であったが、戦乱などの影響で、美保神社が先行して現在の横田神社の地(天正一〇年には南浦)に遷り、遅れてそこに横田神社が合社とされた。そのため、下宇部尾村の人々にとっては、神社との距離が遠くなった。次いで両村の間で神社の負担や、周辺の下草の売却代銀の分配をめぐる対立が生じ、下宇部尾村から両社の内で従の立場にあった横田神社の移転が申請され、森山村もこれに同意した。ただし、両神社の神主は兼任で森山に居住していた。これが、明治初年に神主が森山の美保神社こそ本来の横田神社であると主張し、下宇部尾村との間に対立が生じた。
 以上、関氏が下宇部尾には門江社があったのではないかとの推定は有効ではない。ただし、関氏が引用する慶応二年の平田の住人小村重義の旅日記には、「森山へ出、代宮家立寄候所、留守。三保大明神、合横田大明神拝礼候」とあり、小村重義がこれを美保神社理解して訪れたことが確認できる。ただし、小村が当地の住人でない限り、判断する十分な情報と土地勘を持っていた可能性は低い。下宇部尾村は西で手角村と、東で森山村と堺を接しており、慶安三年検地帳の請人としても両村の百姓もみえる。ただし、その数は森山がはっきりと多い。単純に地形をみると、境界が山である森山との方が距離が遠そうだが(手角との境界は川)、前述のように、両村は長海庄と美保郷に分割されたが「南浦」としての一体性を維持していたのである。従来の横田神社をめぐる説よりはるかに根拠のある説にたどりついた。ただし、当方は当該地域の歴史の変化を探っているのであり、風土記に記載された神社が本来どこにあったかについてはほとんど関心がない。なぜなら、大半の場合は中世と近世前期の情報がなく、判断できないからである。

二つの横田神社4

 『明治三十五年由緒書』八束郡下には森山村横田神社と下宇部尾村横田神社分が収録されているが、前者は簡単で内容も不正確である。『明治一七年神宝目録』には森山分のみ収録されている。棟札の詳細なデータが記載されているが、元禄一三年以降であるのに「横田美保大明神」とあるのは改竄であることは前に述べた通りである。神社の来歴は述べられていない。これに対して由緒書の下宇部尾分は、近世と近代の風土記研究書の関係記述、対立する森山の明治二七年神社明細書も収録し、棟札とともに元禄一三年とそれ以降の証拠文書を大量に掲載している(ただし、神主名を省略した点は前述のとおり)。森山の明治二七年明細書には、尼子氏家臣秋上氏が籠城していた横田山城が落城後、横田谷から移転し、その後天正九年には今の美保神社の社殿に合祭されたとする。美保神社も以前は古関にあったのが、移転していた。美保神社と横田神社が本来所在した場所は現在の小丘陵上ではなく、別々の場所にあったことがわかる。古関は森山村の西端で下宇部尾村堺にある。また由緒書に引用されている明治一四年下宇部尾村横田神社明細書では、本来森山分堺内横田ト申地ニ御鎮座と述べている。これと前述の横田谷を踏まえると、横田神社もまた、下宇部尾村との堺(その山頂が堺)付近に鎮座しており、そのことが、美保神社と横田神社が森山だけでなく、下宇部尾の鎮守であった原因であろう。
 となると、両村の関係が問題となり、そのためには中世がどうであったかが問題となるが、風土記研究者はここを分析していない。そこで注目されるのが現在の神社がある森山村「南浦」である。これとセットである北浦は島根半島北側である。本来「南浦」は森山内の一地名ではなく、北浦に対して、下宇部尾と森山(あるいは手角もか)を含む広範囲な地名であった。それは地図をみれば一目瞭然で、森山分のみでは不釣り合いである。この南浦は南北朝期貞和二年(一三四六)の文書(松江362)に登場する。杵築大社三月会の頭役負担が順番に行われていたが、前年に事前通告がされていた。しかし当年の三月になっても頭役負担をしていない所領があり、在国司朝山氏が請求を行っていた(松江375)。その中で、事前通告をうけた「沙弥覚照」が、美保郷内の知行分は負担するが、南浦や片細(片江)、志津留伊(七類)については自分の知行分ではないので、直接に催促するように回答している。覚照は美作守護佐々木秀貞の守護代であった羽田井高泰であり、美保郷内南浦を支配する一族の娘と結婚していたが、南浦は自己の所領ではなかった。長田西郷も同じ年に頭役負担があたっており、覚照は同郷内の知行分も負担すると回答している。南浦、片江、七類はいずれも美保郷内の所領で、佐々木氏一族が支配していたが、南浦については、本来の「南浦」が美保郷と長海庄に分割されていたと思われる。

 

二つの横田神社3

 横田神社の問題について、関和彦氏『『出雲国風土記』註論』を参照した。現地の資料を踏まえて考察され、力作ではあるが、風土記の時代と幕末の資料のみで論じているという問題点は解消されていない。前回、森山の美保神社が、明治初年に横田神社に名称変更したことを述べた。神主は両社を兼任していたが、美保神社に合祀されていた横田神社は元禄一三年に関係者の合意により下宇部尾に遷っていたにもかかわらず、である。少なくとも、目録にある、元禄一三年以降も「横田美保大明神」とする棟札は改竄されたものである。それを確認するため、資料を探すが、文久二年の島根郡輪切帳には関係記述がなく、旧県史編纂時に写された「享保一二年島根郡神社指出」に期待したが、森山・下宇部尾の指出は含まれていなかった。一方、「大芦」の検索では引っかからなかったが、「大芦浦神社指出」が含まれ、垣之内の天頭天王神社や楡木の日御崎神社、熊野権現社、小具の弁財天社の棟札も収録されていた。すべての神社の神主は同じで、小具氏である。
 「指出」は『旧島根県史編纂資料 近世筆写編二五三』(写真撮影して紙出したものをまとめてある)に収録されているが、同筆写編には、明治初年の松江藩神祀局の資料があり、その中で、神主小具大美が明治二年に国王大明神(後の川辺神社)の上葺と随神門建立、木鳥居に変えて石鳥居とすることを申請し、認めされていた。この時点までは小具氏は存続していたことが確認できた.
 前回、長浜神社について述べたが、文書は省略していた。その文書の署名者四名が神祀局の担当者であることがわかった。最近、論文や文書写真の紙焼きをデジタル化したことは前述のとおり。早稲田大学では閲覧はできるが、写真は文書を指定して業者が撮影し、紙焼しか入手できない。それを久しぶりに見直し以前は「中澤」と読んでいた姓を「中溝」に修正したばかりであったが、まさに「中溝」氏が仁多郡・飯石郡と市中(城下)の担当者であった。文書にはその外に井原、熊沢、重村氏が署判していたが、重村氏は明治二年の担当にはみえず、替わりに神門郡担当として酒井氏がいた。長浜神社の文書には年次がないが、少なくとも明治二年のものではないことになる。
 話を横田神社に戻すと、慶安三年の下宇部尾村と森山村の検地帳を閲覧した。下宇部尾村に横田神社が遷る前のもので、下宇部尾村には御役御免屋敷の中に寺社は無かった。森山村では美保神社と万福寺の敷地が御免屋敷とされていた。とここで、ネット検索で関氏が去年三月に七三歳で死亡されたことを知り、驚いた。これまでは名前を聞いたことがあるのみではあったが‥‥。関氏は横田神社をめぐる森山と下宇部尾の対立から、『風土記』の門江社(一般的には東川津の同名神社に比定)に相当する神社が下宇部尾にあったかもしれないと述べられていた。『風土記』写本で島根郡の神社が五社を除き欠落していたことは初めて認識した。藩士で研究者でもあった岸崎佐久治(寛文一二年の大芦村検地帳の作成者でもあった)が『延喜式』の式内社をコピーして挿入したというのが定説のようだ。ただし、それでも数は不足している。関氏は延喜式の記載順は参拝を前提とするものであるとの理解から門江社の問題を述べていた。その当否を判断する準備はないが、元禄一三年に横田神社が遷ってきた時点の下宇部尾には村の鎮守というべき規模の神社はなく、森山の美保・横田大明神で神事を行っていた。

 

2020年1月17日 (金)

神社の名称変更3

 文永八年結番帳には「佐草社一三町一反六〇歩」がみえ、本来の大草の主役であった佐久佐命は国衙のあった大草郷や神戸と郷庁のあった大庭の地ではなく、西端の佐草に祀られることとなった。南北朝期には室町幕府と深い関係を持つ安国寺が佐草社に対して一定の権利を有している(安国寺文書)。そして戦国期には佐草の地に大原郡潮から八重垣神社が進出し(実はこの点についても、伝承以上のものではない。)、八重垣神社は神主佐草氏(その一族は出雲大社神官であった)を通した出雲大社との関係をテコに毛利氏に訴え、佐草社への安国寺の支配をはねのけていった。その意味で、風土記研究者の見解とは異なり、八重垣神社が佐久佐社を名乗るのは根拠がないわけではないが、惣社・八重垣両社ともに風土記時代の佐久佐社とは全く性格の異なる神社になってしまっている。「伝統を継承する」とはよく聞く言葉であるが、実態は変わっている。
 古ければ古いほどよい。確かに古きものほど現在に残る確率は低くなり、希少性は高い。経済学的には希少性が高いと数字で表示される価値(価格)も高くなる。ただ、それと現代における本質的価値は全く別であり、現代に生きる私たちが何を受け継ぎ発展させていくかにより、古さに関係なく歴史的価値が定まってくる。価値は外から与えられるものではなく、各時代の人々が選んでいくものであるが‥‥。
 日本社会では明治以降の近代化の中で、それまで培い高めてきた文化と新たな西欧文化それぞれの到達点を対決・吟味しつつ、新文化を導入する作業が十分に行われなかった。これは他のアジア地域と比較しての程度の差の問題であり、一方ではそのような路線を採ったために、アジアの中でいち早く近代化を達成することが可能となったともいえる。
 「歴史に学ぶ」とはよく使われる言葉であるが、その「歴史」とは何であろうか。現在の保守的とされる人々が依拠するのは、近代の天皇制に代表されるように、前代までの達成を忘却し、古代の特定の時期と近代を一直線に結びつけて新たに作り出されたものであることが多い。それも伝統であるが、それとは明らかに異なる伝統が大半なのである。そして近世社会における達成は近代社会が進行する中でそのほとんどが否定・忘却されていった。それとともに社会の中にあった本来変化しにくい部分もしだいに変容していった。(以下は今回追加)「嘘つきは(歴史の)泥棒の始まり」、この言葉を忘れてはならない。

神社の名称変更2

 一つの名称をめぐって複数の神社が名乗りをあげ、争奪戦がくりひろげられたこともあった(『八束郡誌』)。代表的なものに、「佐久佐社」をめぐる大庭・六所神社と佐草・八重垣神社の争い、「宍道社」をめぐる来待・石宮神社、宍道・三崎神社(現在は氷川神社に合祀)、佐々布・大森神社の争いがある。後者は三社それぞれ得失があり決着しなかった。これに対して、前者は明治5年に八重垣神社に軍配があがり、八重垣は名称を佐久佐神社に戻して(主な祭神とした)新たな神社制度の郷社に列せられた。一方敗れた六所神社は一つランクが下の村社にとどまった。
 次いで大正11年に佐久佐神社は社名を八重垣神社に戻し県社に昇格し、六所神社は3年後の大正14年に伊弉諾外6神を祭神として県社に列せられた。風土記研究者の多くは、六所神社のある大草は風土記に「青幡佐久佐命」とあるので、本来は「さくさ」と読み、佐久佐命を祭る佐久佐神社は大草にあったとする。
 なぜこのような問題がおきたかといえば、中世において佐久佐社の場所が移動したからである。古代の大草郷は八雲町の大半も含んでいたが、中心は北部の大草・大庭・佐草地域にあった。とりわけ大草には出雲国府があり、大庭には神戸と大草郷庁があったことが風土記からは読み取れる。この地域が狭義の「大草」(さくさ)であったと思われるが、中世へ移行する過程でさらに三地域に分かれた。
 その背景には意宇郡司と国造を兼帯していた出雲(臣)氏が、出雲西部の杵築に移住したことがある。10世紀以降のこととされるが、出雲氏にとっては国府のある意宇郡にも足がかりを残す必要があった。一方、国司にとっては自らの手で祭祀を含め新たな秩序を作り上げようとした。その結果が、前述のように、国司主導の大草と国造が一定の権限を認められた大庭の分割であったと思われる。
 国司主導の大草の地には11世紀頃には国内の有力神を祭った惣社が設けられ、その祭神の一つに佐久佐命もあったろうが、主役ではなかった。同時に国司は、出雲国内の有力者を在庁官人に組織し、国府周辺は府中と呼ばれる都市的空間に発展していった。また12世紀には出雲国一宮制が整備され、国造もその体制の中に組み込まれた。府中の神社も国造と関係の深い伊弉冉社を除けば国造以外の一宮神官が勤めていた。
 そうした中、国司側にとって打撃となったのは、在庁官人の多くが、1221年の承久の乱で没落したことであった。お膝元の大草郷には東国武士が地頭(文永8年の地頭は幕府に仕える医師丹波氏であり、実際には幕府が管理)として入ってきたのである。その支配は著しく弱体化し、東国出身の地頭の協力無くして府中内の神社の造営や神事は行えなくなった。一方、国造は幕府と結んで大庭・田尻地頭職を安堵され、これをテコに大草郷内の惣社と山代郷内の伊弉諾社への支配を強め、在庁官人出身の神官を追放した。国司側が伊弉冉社をはじめて神魂神社と呼んだのはこの時点であった。神魂神社は伊弉諾社と惣社の上に立つ存在となり、国造が両社の祭祀も担当した。

神社の名称変更1

 明治初期の神社の名称変更について述べた文を掲載する(歴史の実像と虚像ー近隣の例から、『松江商業高校研究紀要』二〇〇八年三月)。
 国引き神話と関わりの深い八束水臣津野命を主祭神とする出雲市西園町の長濱神社は、近世には妙見社と呼ばれていたが、明治初期に古代の「出雲神社」に名称を変更したいとの申請を出している。それに対する藩(廃藩置県以前)からの返答は、出雲神社は「式社」(延喜式に載る式内社の意か)であり調査中で、来春についてはとりあえず「長濱神社」と名乗るようにというものであった。正式回答の文書は残っていないが、そのまま現在に至っている。
 「昔の名前で出ています」とは歌の題名であるが、松江市内の古い歴史を有する神社のいくつかを回り、且つ関係史料を調べてみての感想がこれである。歴史は後からみるものにとっては一瞬でたどることができるが、実際には大変長い時間が経過し、その間継続的に続いたものは家・神社・仏閣でもほとんどなく、栄枯盛衰を感じるだけでなく、名称・場所の変更が変わりゆく歴史の証言者となる。ところが、歴史をたどるものは、あたかも過去と現在を一直線に結びつけ、ずっとその名称でその場所にあったとして歴史をつくってしまうことがある。善意に解釈すれば、歴史は起承転結があって初めてアピールするわけで、起と結しか残っていないので、承・転を想像し空白を埋めストーリーを完成するのであろう。しかし次の世代のものは、それを事実と受け止めいつしか虚像が実像になっていく。
 幕末から明治初年にかけて、出雲国の神社の中にはそれまで使っていた名称・祭神を、みずからがルーツと考える風土記(8世紀)や延喜式時代(10世紀)の神社名に変更するものが多かった。この間神仏習合が進み、神社の祭神そのものも大きく変わってしまったにもかかわらず(筆者はこれを正常な進化・深化と評価する)‥‥。個々の神社が直面する深刻な問題へ対処するために名称や祭神を変更するのは当然であるが、幕末から明治にかけての変化はこのような「変化」と同列に論じることができないものである。
(補注)この時期の神社について論じるためには、保護者としての藩の崩壊と新たな国家神道化や宗門改制度に代わる氏子制度と戸籍の問題を併せて論じる必要があるが、大変大きな問題であり今後の課題としたい。

2020年1月16日 (木)

二つの横田神社2

 両者の表記の違いの原因は、その後生じた横田大明神をめぐる対立である。明治三年(一八七〇)の県による神社調査の際に、横田大明神は下宇部尾村にあったにも関わらず、「旧神官佐々木竹男」が「横田神社ヲ三保(美保)神社合殿ニ書上」たのである(由緒)。下宇部尾側の主張が事実であった。森山村は横田大明神を元禄一三年に分離し、美保神社があったが、風土記では「在神祇官」で延喜式内社であった横田社は本来は森山にあったことを根拠に主張したのである。元禄一三年に分離するまでは美保大明神に横田大明神が合殿されていたが、古代の格としては三保(美保)社は横田社の下であったためである。それゆえに、森山作成の目録では寛文三年以降の棟札でも「横田・三保大明神」と記したが、それは自らの主張が認められるように、事実を改変したものであった。すなわち、森山村では下宇部尾の横田大明神は森山の本社を分社したものとしたのである。
 由緒には明治一四年(一八八一)提出の下宇部尾村佐々木正衛作成の明細書と、明治二七年(一八九四)提出の森山村社掌佐々木美知衛作成の明細書、長海村社掌佐々木正衛作成の明細書を引用している。一八八一年には下宇部尾は独立村であり、一八九四年には森山村内であった。明治三年までは森山村美保神社と下宇部尾村横田神社の神主は同一人物であったが、神主佐々木竹男が事実と異なる主張をしたため、これを解任し、新たに長海神社神主を横田神社神主としたのであろう。この対立の結末は不明であるが、大正一五年(一九二六)刊の『八束郡誌』では、森山村内の明細帳神社として、大字森山字南浦の横田神社と大字宇部尾字宮ノ谷の横田神社の両方を記すが、前社には「式内 村社」と記すのに対して後社は「村社」とのみ記し、前社についてのみ詳細を述べており、森山側の主張が認められたと思われる。南浦の美保神社は横田神社に合祀と記されている。ちなみに、中世には下宇部尾は長海庄内で、森山は美保郷内であった。近世には独立した二つの村として扱われたが、祭祀では下宇部尾は森山との関係が強かった。それが一八八九年の市町村制施行により下宇部尾は森山村に含まれ、戦後の町村合併でも森山とともに美保関町となった。これに対して中世の長海庄は下宇部尾以外は松江市となった。下宇部尾は西側、東側の両方の地域と関係をもつ、境界に位置していた。
 歴史を明らかにするとはどういうことであろうか。『島根県の地名』では、元禄一三年以降も下宇部尾村と森山村の両方に横田神社があったとするが、以上のように誤りである。風土記時代の横田社が森山内(ただしその具体的場所は不明→後述)にあったことは間違いなかろうが(秋上氏が居城とした横田山にあったこともあると言われる)、その後衰退し麓の南浦の美保神社(これも本来は別の場所から遷された)の合殿とされ、それがゆえに、下宇部尾村の要求が認められて、横田神社は下宇部尾に遷ったというのが正しい歴史である。それが、明治初年の「昔の名前で出ています」ブームの中で歴史がねじ曲げられてしまった。風土記や延喜式にみえる神社を現在の神社に当てはめる作業が如何にむなしい作業であるかを理解していただきたい。前にも述べたことがあるが近代の日本では中世、近世の変化・発展を無視して、古代と一直線に結びつけて虚像=神話が作られてしまった。歴史は発見するもので偽作するのもではないのに。たまたま、本庄での講演のため、下宇部尾の横田神社を訪問(参拝ではない)したため、今回、大芦浦の問題との関係で検討し、ようやく自分も納得できる結論を得ることができた。

 

二つの横田神社1

 大芦で国主大明神と母坂大明神が分かれたこととの関係で、森山と下宇部尾の両方にある横田神社について述べる。典拠とするのは森山横田神社宝物文書目録(明治一七年=一八八四調査、以下では目録)と下宇部尾横田神社の由緒書(明治三五年=一九〇二調査、以下では由緒)である。天正一〇年(一五八二)には美保郷内南浦三保大明神の造替が行われている。本願は地頭仁保元保の代官森脇春保、神主は佐々木安房之助であった(目録)。南浦を含む森山は尼子再興戦で秋上氏が拠点としたが、後に毛利氏方転じ、毛利氏家臣仁保氏領となった。九年後の天正一九年(一五九一)には美保大明神・横田大明神の造立が行われており(目録、由緒)、最初に記される美保神社に横田神社が併せられる形で造営が行われていた。神主は蔵大夫であった。慶長九年(一六〇四)には三保大明神の再興(目録)と横田大明神の再興(目録、由緒)がそれぞれ独立して行われている。神主は目録では佐々木与三、由緒では嶋与三とあるが、同一人物であろう。問題は寛文三年(一六六三)で、目録に引用された棟札には横田・美保大明神の造営が行われたとし、由緒では美保大明神・横田大明神の造営とする。目録では天正一九年と両社の順番が逆であるが、由緒では同じである。由緒の「美保大明神」と「横田大明神」の順番で記すのが正しい。
 ここまでは、両社が森山にあったが、元禄一三年(一七〇〇)に横田大明神が下宇部尾に遷されている。由緒によると、森山村にある両社やその関係神社を含む八社の造営・祭礼などの負担の配分と、神社周辺の下草等を刈って得られる代銀の配分を巡り、両村の利害が対立したことが理由であった。そうした中、下宇部尾側から横田大明神で霜月に行われる下宇部尾の祭りが天候悪化により、下宇部尾の村民が参詣しがたいことがあるとして、横田大明神を下宇部尾村に遷す(勧請する)申請がなされ、森山村が了解し、元禄一三年三月に横田大明神の「勧立」が行われた。下宇部尾側からの申請には神主佐々木和泉も署名している(由緒)。ところが、目録には翌元禄一四年に横田・美保大明神の上葺が行われたとしている。由緒には神主名が引用されていないが、目録では佐々木和泉源重成とする。前述の佐々木和泉であり、両社の神主は同一であった。その後も幕末に至るまで由緒では横田大明神単独で神主名は引用されず(下宇部尾の横田大明神の神主が森山の美保大明神の神主と同一であることを明示したくなかったのであろう)、目録では横田・美保大明神で、神主名を引用している。両方の棟札にそれぞれ問題がある。

 

2020年1月15日 (水)

大芦浦について9

 新たな情報を得るとそれまでの解釈を変えなければならなくなる、大芦浦についてはその連続である。今回は、島根公民館長から電話で話を聞いたことと、明治三五年の大碕川辺神社と大碕神社の由緒書を確認したことによる(由緒書八束郡上)。
 現況からすると大碕神社が敷地も広く、建物の規模も勝っているが、明細帳では大碕川辺神社の氏子が大碕神社の二倍である点の理由を聞いた。すると氏子の対立により大碕川辺神社から分かれて創立したのが大碕神社で、氏子は海鳥とのことだった。正確に言えば、北垣内森田にあった国主大明神から独立して母坂大明神が小具に創立された。神社明細帳では境内の面積で大碕神社が川辺神社の約二倍であったが、由緒書に引用されている明治一四年の明細書では大碕神社が二〇二坪、大碕川辺神社が二八四坪である。前者は後に五倍の広さとなり。後者も二倍の面積となっている。前回は北野天満宮が勧請されたのは大碕神社のあたりとしたが、中世は神仏習合であり、後述の瑞光寺の場所が有力か(再検討中)。京都の北野天満宮と関わりの深いのは天台宗曼珠院で門主が北野神社別当を兼務していた。その初代院主が菅原氏出身の是算国師とされるが、その活動時期については諸説あるようだ。
 『雲陽誌』を含め神社に関して述べた書物は、「馬鹿の一つ覚え」としか表現しようがないが、自分が知っている『出雲国風土記』の神社に比定する。そこには何の根拠もないのである。寛永六年に国主大明神が建立されているが、同じ場所に母坂大明神もあった。ただ、神社としては独立しているので、造営、修復、上葺は独立して行われる。それが氏子間の対立により、母坂大明神は延宝四年に小具の地に遷って建立された(ただし、海鳥のみが氏子かは未確認)。神主は国主大明神と同じく小具主膳であった。寛文一二年の大芦浦検地帳(県立図書館に旧県史編纂時の抄本あり)には田畠の請作人として、神社関係では日田社二筆と主膳一七筆、神田二筆がみえる。日田社については不明だが、主膳が国主大明神と母坂大明神の神主であり、当時は二社は北垣内森田にあった可能性が高い。寺院関係では瑞光院が一一筆、宝寿寺が一筆、小法が六筆(北垣と垣之内にあり、あるいは天王の関係か)、慶正が一筆ある。瑞光院の請地には「慶真院」「慶寿院」という地名がみえるが、瑞光院(寺)の歴史がたどれるのは万寿寺四世龍関大和尚を開山とした承応四年(一六五五)以降である。「慶真院」ないしは「慶寿院」がその前身となる寺院である可能性もある。島根町誌編纂時に蒐集した史料は町の体育館に保管されているとのことで、寛文一二年検地帳を含めた関係史料が残っていれば、より正確な情報に基づき考察できる。歴史を自分の都合の良い部分のみ取り出して恣意的に解釈するのはもうやめてほしい、これが『風土記』にのみ注目する人々への注文である。未来は創るものであるが、過去は発見するものであり作るものではない。

2020年1月14日 (火)

大芦浦について8

 ただし、明細書にはいくつか注目すべき内容が記されていた。大埼神社の氏子は明治五年時点で九六戸、大埼川辺神社は一九六戸であった。前者はHPで確認したのみであるが、大芦浦の中央に位置し、境内も川辺神社より明らかに広かった。明細書でも前者は一〇六九坪に対して後者は五九六坪で、本殿等の建物も前者が規模が大きいようにみえた(面積は明治五年以降の明細帳の数字か)。両社氏子の地域区分を確認していないが、所在する浜・小具が前者の、その以外が後者であろうか。これに対して雑社とされた天満宮は氏子の戸数ではなく、崇敬者が一九六人で境内はわずかに六三坪坪と記されているが、その範囲は不明である。
 両社の起源が不明というのは理解できるが、大埼神社は延宝四年(一六七六)一二月六日に再創立、大埼川辺神社は寛永六年(一六二九)八月に再創立と記されている。前述のように天満宮は天和三年(一六八三)二月に再創立であり、以前は楡木内茅山にあったとする将軍神社を含めて、大芦浦の主要神社が廃絶した可能性が出てきた。将軍神社については尼子・毛利の合戦によるものではないかとの説も前に示した。大芦浦と関係が深い加賀浦が尼子・毛利の合戦の舞台となったことが確認できるのは元亀元年(一五六九)一〇月で、毛利氏は家臣の児玉就英が敵船を切捕らえたことを賞している。次いで加賀浦を占領した毛利方は翌年初めには加賀浦に小城を普請しつつ、並行して城番を配置している。湯原氏は元亀四年(一五七二)時点でも城番を続けている。『島根町誌』では加賀は早くから毛利方となったとする。
 これに対して、天和三年再創立とされる天満宮に有力者髙井氏が御神臺を寄附したのは天正二年(一五七四)であった。合戦の舞台を避けて、天正二年までに菅原道真を祀る天満宮が北垣に再建されたが、有力者髙井氏の支援が大きく、他の神社とは性格が異なり、氏子を有しないものであった(ただし、棟札には庄屋や藩の役人の名がみえる)。論者が北垣で地元の方(その場所からして東部では髙井氏に次ぐ勢力を有した藤井氏の関係者であったと思われる)から天満宮について聞いたが、記憶から失われていたのはそのためであろう。一方、大埼神社と大埼川辺神社もまた断絶したことも確認できた。その時々の状況で神社はその位置、性格を大きく変化させており、風土記時代の神社に比定することがほとんど意味のないことも再確認できた。とりあえず、大埼神社と大埼川辺神社の氏子の範囲を確認することが必要である。
 なお、『郷土調査』(大芦村尋常高等小学校、大芦村実業公民学校、一九三四年刊)には当時の村内年中行事が記され、その中に神社の祭礼が登場しているが、楡木では熊野神社、日御崎神社の例祭と荒神祭が、浜では木野山神社例祭と荒神祭、海鳥では秋葉神社例祭と荒神祭、小具では弁天神社例祭と荒神祭、別所では将軍神社例祭と荒神祭、北垣では天王神社例祭と荒神祭、垣之内では蛇神社例祭と荒神祭が記されている。大埼社と大埼川辺神社の祈年祭、例祭、新嘗祭は地区が記されて居らず、村全体の祭とも解釈できる。新嘗祭こそ同日(一一月二三日)開催であるが、祈年祭と例祭は日をずらして開催されている。ちなみに、三月一一日の天王神社例祭は近世末には旧暦二月一一日に天王様祭として行われていた(『島根町誌』の高井家の日記による)。

 

大芦浦について7

 大芦浦の天満宮を考える上で避けて通れないのが大埼神社との関係である。風土記時代の同名の神社が祭神も変化せずに同じ場所で存続し続けた可能性は極めて低いが、風土記研究者には非現実的でおめでたい人が多いようだ。北野姓の多さからみれば天満宮の所在地は楡木となるが、その場所は楡木東端で浜に隣接する地点であった。それと、北垣へ遷った天満宮の遷宮・祭礼に関わったのは楡木ではなく、浜・小具と北垣内別所の人々であった。天満宮が風土記時代の大埼神社の場所(再検討中)に隣接する形で勧請され、大芦浦の神社の中心となったと考えるべきかもしれない。そして、天満宮の衰退の背景としては、尼子・毛利の合戦の舞台となったこととともに、しだいに北野天満宮領としての実態が失われてきたこともあろう。中世では天満宮が主で大埼神社(明治以前は国主大明神)が従であったのが、天満宮の衰退により、大埼神社が浮上してきた可能性もある。
 ということで、新たな情報を求めて『島根県神社明細書』と『島根県寺院明細書』の内容を確認することとした。現在は島根県総務部総務課が『島根県宗教法人名簿』を発行している。最新版は二〇一八(平成三〇)年度一二月三一日現在版であるが、その大元となる台帳である。両明細書には明治初年から戦後間もない時期までの記載がある。明治三年に新たな制度が生まれ同五年に作成され、戦後の新制度までを記述している.現在の台帳の前のもので、県立図書館が所蔵している。
 『神社明細書』をみると、大芦浦では大碕(埼)神社、大碕(埼)川辺神社と天満宮のみ掲載されていた。将軍神社が含まれていないのが不思議である。明治五年以降に登録されたのだろうか(4で明治一六年一〇月に再創立・登録されたことを述べた事を失念していた。翌一七年に県が明細書の提出を求めており、それを機に登録の動きを強め認められたのであろう)。『八束郡誌』では両大埼神社(村社)と将軍神社(無格社)が明細帳登録神社とされている。垣之内には素戔嗚命を祭祀とする素鵞神社があったが、明治七年五月三〇日に廃社となり、村社大埼川辺神社の本殿に合祀された。そのため、川辺神社の祭神は伊邪那美(伊弉冉)命と素戔嗚命が記される。これに対して天満宮は明治五年には雑社(無格社)の扱いとなり、後に大埼川辺神社に合祀され境内社となった。その時期が『郡誌』では大正六年と記されていたが、『明細帳』では判読が微妙だが大正一二年七月九日に合祀されたと読める。素鵞神社は本殿に合祀で、天満宮は境内社の扱いとなった。川辺神社の境内社には何の表示もなく、看板でも触れていなかったが、ようやく天満宮が確認できた。

 

2020年1月11日 (土)

一月の近況から2

 とりあえず、今年の明智光秀については、朝山日乗をきちんと取り上げてほしいが、監修の小和田哲男氏は日乗について詳しくなさそうなのが気になる。信長から将軍義昭への指示は、光秀と日乗により伝えられていたし、日乗は朝廷とのパイプも有していた。話に視聴者の関心をひく演出を加えるには小和田氏はよいかもしれないが、テーマからすればもっと適任な人(複数が良い)がいると思う。天下統一をテーマとするからには、小和田氏のような東日本中心の研究者以上に大陸を含めた西日本中心の研究者が必要だと思う。時代考証補の小和田氏の息子は中世史と対外関係史が専門のようではあるが‥‥。この予想が良い意味ではずれることを期待したいが、熱心な視聴者にはならないだろう。
 また話は変わるが、たまたま『中右記』で浅間山噴火の記事を読んだ。一二世紀初頭の噴火で上野国では噴石・火山灰が周辺に堆積し、新たな土地開発が始まり、それが鎌倉幕府成立の一つの背景となったことは知ってはいた。摂関家の忠実も上野国で大規模な立庄を行おうとしたが、白河院に認められなかった。上野国司高階敦政が鳥羽院が口添えした荘園の継続認定を白河院の近臣と結んで拒否し、そのことが二三年後に、鳥羽の近臣藤原家保の意向をうけた人々により陵辱され、琵琶湖に投身自殺したことと、浅間山の噴火は関連している。
 七月二一日から始まった噴火を上野国司からの報告を受けた政府が認識したのは、九月の初めで、後半には大規模な天災時に行われる特別な占いも行われている。二〇一八年あたりから浅間山では小規模な活動がみられている。天明三年八月の浅間山の噴火は四ヶ月前から兆候があったとされる。この二回の浅間山の噴火と富士山の宝永大噴火(一七〇七)がここ二〇〇〇年の日本では最大レベルの噴火とされている。東日本大震災の約一一〇〇年前に発生した貞観の大地震の直前にも貞観の富士山噴火があったが、これら国内の実例をその規模でしのぐのが現北朝鮮の白頭山の噴火(九四六)であったとされる。たまたま車運転中に聞いた国会中継で与党の議員が、白頭山噴火の兆候があるが、他国と連携した対策について質問していた。西日本では浅間山・富士山の噴火以上に影響がでそうであり、南北朝鮮、中国と連携していかないと、核ミサイル以上の脅威となる。共通の利害がある問題として早急に取り組まなければならない。国内ではあまり認識されておらず、大変危険である。

一月の近況から1

 今期の冬は予報の通り暖冬で、年末年始もほとんど意識せずに過ごした。暖冬の場合は、冷夏となることが多いそうだが、それがスポーツマンと観客のためになれば幸いか。初詣は行っていないが、大芦の大埼川辺神社を訪問した。過去にはNHKの行く年来る年の除夜の鐘の定番であった成田山新勝寺に行ったことがあり、境内を文字通りざっと巡ったが、目的は成田山仏教図書館が所蔵する荒木直躬(元千葉大学医学部教授)氏の囲碁史蒐集資料の写真を撮影することだった。
 大芦に注目したのは、ここを校区に含む高校に勤務していた際に、生徒、教員の両方に「北野さん」がいたが、ことごとく大芦の出身であったことだった。文永八年の三月会結番帳にみえる「春日末社」については戦国期の史料に島根郡と明記されており、そこから場所を特定できた。飯石郡に比定されていた大田別宮については、日倉(蔵)別宮に接近しすぎていることがら、神社の棟札に関する情報を集める中で、塩冶郷内上郷の地に比定できた。仁多郡内に比定されていた福頼郷はその面積から仁多郡内に比定できる所領ではないため、理詰めで出雲郡(出雲市斐川町学頭・庄原)に比定した。最後に残っていたのが北野末社であった。大社三月会結番二〇組の中で一番に編成されており、他の所領との関係から秋鹿郡か島根郡内の所領である可能性が高いと思っていたところで、北野姓が多い大芦の存在を知ったのである。従来、大芦は加賀庄内とされていたが、関係史料をきちんと分析すれば含まれていないことは明白であった。
 大芦については別記事で述べたので話題をかえると、再来年の大河ドラマが北条義時を主人公とするものになった。大河は視ないので、今年が明智光秀であることは知っていたが、来年については思い出せなかった。調べてはじめて、そういえば渋沢栄一だったなという程度である。渋沢は慶喜に仕えていたようだが、旧幕臣には薩長関係者の何十倍も有能な人材がおり、これが中心となれば日本の近代も少しはましになったであろう。国盗り物語、太平記、毛利元就など中世を扱ったものはある程度視た。北条義時やその他の評定衆については、ここ二~三年で以前より関係史料をみる機会が格段に増え、どのように描かれるか、関心がないわけではない。ブログの記事でも北条時宗の異母兄時輔について取り上げたことがある(横田庄と女性)が、時輔の母に関する今野慶信氏の説は興味深いが成り立たないものである。

 

2020年1月10日 (金)

大芦浦について6

 次に問題となるのは、天満宮の古器物としてみえた天正二年御神鏡臺と天正一一年御祝詞箱である。願主は前者が髙井猶右衛門、後者が髙井浅右衛門で、後者には神主小具因幡藤原定因の名も記載されている。髙井氏は垣之内(36)と北垣(6)に集中し、それ以外は小具(2)と加賀浦分の新津(1)にあるのみである(『島根町誌』)。天正年間にはすでに北垣にあったと思われる。旧島根町内では野波(54)に集中する余村氏(55)に次ぐ軒数(45)である。明治九年一〇月大芦浦木実山反別地価取調帳作成時の大芦浦戸長は小柴彦七郎であったが、明治一六年七月に大芦浦字調を提出した時の戸長は髙井七右衛門であった。七右衛門は明治九年の取調帳の作成者の一人であったが、明治一一年七月制定の郡区町村編制法により、任命制であった戸長を民選に変更したことで、外部出身の小柴氏から大芦浦の髙井氏に交替したと思われる。隣接する加賀浦字調を提出した戸長も髙井蔵四郎であった。髙井氏は大芦浦東部を拠点としつつも、加賀浦にまで勢力を持つ有力者であった。その勢力は戦国時代にまで遡るもので、天正年間の古器物銘は信頼できる史料である。
 以上をまとめると、当初は一二世紀前半に天満宮が勧請されたのは大芦浦東部の北垣としていたが、西部の楡木付近に訂正する。現在、天満宮にちなむ北野姓の人々は、楡木地区の東端、濱地との境界部分に集中して居住しており、この付近と考える。楡木には日御崎社があるが、戦国期までは北野天満宮と将軍神社(上下)もあった。農業面(寛文一二=一六七二年検地帳によると、田数二六町余の内上々田=一石七斗代が三二%、上田=一石六斗代が一七%と安定している。慶安三=一六五〇年片江浦検地帳では上々田=一石六斗代が一二%、上田=一石五斗代が二六%でしかない)では東部が優位にあるように思われるが、大芦浦は漁業・流通の拠点でもあり、延宝六年(一六七八)の塩浜改帳には80ヶ所の塩浜が登録されている(楡木浜15、海鳥浜9、浜村22、小具13、垣ノ内21)。水運・海産では西部が中心であった。また、内陸部では東部を中心に木実(油木)山も多数みられた。その最多の所有者が髙井氏一族であった。

大芦浦について5

 将軍神社について再確認すると、永禄年間に大芦村西部の楡木から別所に遷ったとし、それを示す棟札としては宝永四年(一七〇七)の上将軍大明神修復棟札、享保三年(一七八一)上将軍大明神造立棟札、享保一一年の上将軍大明神修復棟札、享保一八年の下将軍大明神修復棟札、享保二〇年(一七三五)の上将軍大明神の修復棟札が残っている。二〇年のものは詳細で、庄屋(髙井)・年寄(髙井)・大工(野津)各一名と本願二名(田中・宇田)に続いて八名(宇田五名、小田三名)の名が記されている。神主は一九年後の宝暦四年の上将軍大明神の修復棟札と同じ小具若狭守藤原定長である。宝暦四年は造立・建立ではなく修復であり、享保二〇年の修復後に廃絶した可能性は低いのではないか。その後は、文化三年下将軍大明神建立、文政一二年同明神修復、嘉永五年同上葺の棟札が残っている。
 これを踏まえると、北垣の天満宮についても再検討が必要である。天満宮と将軍神社の近世の神主(小具氏)は共に同じ人物であった。また天満宮の建立・修復は北垣だけでなく、濱・小具も担っていた。ここからすると、天満宮も将軍神社と同様、一六世紀後半に大芦村西部から東部北垣の地に遷ったのではないか。明治期の社掌は小具地区にある大碕神社社掌金津氏が兼任していことからすると、小具氏も大碕神社神主で天満宮と将軍神社の神主を兼任していたと思われる。ただし、金津氏は加賀浦の加賀神社神主の一族である(二〇一八年末現在版『島根県宗教法人名簿』によると旧島根町内の神社の神主は金津一族三名が務め、旧大芦村分で掲載されている大埼神社と大埼川辺神社の神主は同一人物である)。
 大芦村の北野氏は天満宮と関係する苗字であるが、東部の北垣ではなく西部楡木にのみある(『島根町誌』、一九八一年当時)。なお、大芦村を構成する地域を西部から順に記すと、楡木、濱・海鳥、小具・別所、北垣・垣之内となる。楡木・濱・小具・北垣は海岸部で、海鳥、別所、垣之内は内陸部となる。小具にある大埼神社神主であった小具氏も楡木の東に隣接する濱にのみみられる(『同』)。天満宮の造営・修復には濱・小具の人々も担っていた。小具氏が天満宮とともに兼任していた将軍神社は楡木にあったものが、永禄年間に別所に遷ったものとされる。以上の点を踏まえると、天満宮も戦国期までは大芦西部にあったと思われる。戦国期に天満宮と将軍神社が東部に遷る背景としては、尼子氏と毛利氏の合戦により、神社が焼失したことと、その結果、支配者が毛利氏方の国人に変わったことが考えられる。

 

大芦浦について4

 大芦の天満宮については、明治三五年(一九〇二)に県に提出された由緒書が残っているが、そこに引用された明治一四年(一八八一)五月の由緒書によると、創立の由緒は不明だが、大宰府天満宮からの分霊により勧請したとの古老の言い伝えがあるとしている。天和三年(一六八三)二月に再創立されたとして、同年の棟札を載せている。神主は小具主膳(後述の宝永六=一七〇九年塩浜改帳や寛文一二=一六七二年大芦浦御検地帳にもみえる)であるが、宝暦四年(一七五四)九月の修復の棟札では「小具若狭守藤原定長、同倅小具丹波守藤原定之」と記している。直近では明治一五年一二月に上葺を行った棟札があるとのこと。引用された宝暦一四年社司小具主鈴書出帳によると建立・修復は大芦浦の濱・小具と北垣内別所(後述の大芦村別所ではなく、北垣内の別所の意味であろう)の氏子が担ったとする。
 大芦村別所にある将軍神社の明治三五年由緒書もあるが、金津多喜永が両社の社掌を兼任していた。永禄年間までは大芦村字楡木の茅山に上将軍大明神と下将軍大明神が鎮座していたが、高渋城主金山兵庫が信仰して、別所に遷したとする。一方、別所の開発を行ったのは安芸国出身の田中仁左衛門と小田理次郎右衛門で、両人は飯石郡朝原村に板垣次右衛門を訪ね、弘治二年三月に別所に来住し、その後に人口が増加したとする。『島根町誌』史料編(1981年)によると、別所地区住民の苗字では一位田中九軒、二位小田八軒、三位宮廻五軒であった。由緒書に引用された明治一七年三月の明細帳によると、当社も宝暦四年(一七五四)九月に再創立したこと、明治七年神社改正の際にも廃社となり、その後一六年一〇月に復旧を許可されたことがわかる。そして、金津多喜永とは大碕(埼)神社祠掌で、天満宮と将軍神社を兼務していたこともわかる。
 と、ここまでは良かったが、社蔵古文書の最初に掲載されている天正一〇年壬午九月一九日の下将軍大明神修復の棟札で当惑してしまった。諸奉行として「庄屋伊四郎」とある上に、本願として「田中助右エ門、小田平□□」とあり、さらには近世の同社の棟札と共通するのである。そこで、再検討した結果、これは宝暦四年の再創立後の宝暦一二年(壬午)のものであることが判明した。宝暦四年の際の神主は小具若狭守藤原定長であるが、問題の棟札には「神主小具氏丹波守」とある。これは前述の宝暦四年の天満宮棟札の「倅小具丹波守定之」と同一人物である。実際に、将軍神社の宝暦一二年壬午九月一九日棟札も残っており、そこには「神主小具氏丹波守定之」と記されている。天正一〇年棟札は『松江市史』史料編中世Ⅱ、長谷川氏報告書にも掲載されているが、訂正が必要である。当方も偶々大芦村について近世の棟札を含めて検討したために確認できた。どうみても天正一〇年で「庄屋」はあり得ないのだが、当方の棟札のメモでも、それに気づいて検討した形跡はない。

 

2020年1月 8日 (水)

大芦浦について3

 大芦が北野末社であり、加賀庄とは独立した所領であったとの本ブログの説に対して、永禄一二年に比定できる一〇月六日毛利元就・輝元連署書状(松江1275、以下松江市史中世に収録された番号で出典を記す)により多賀氏に進置かれた所領の中に「加賀大蘆三百貫」とあることから、大蘆は加賀庄の一部であるとの疑問が提示されるかもしれない。ただ三〇〇貫という数字は大蘆(芦)単独では大きすぎ、「加賀・大蘆」と解釈すべきである。同年一二月二〇日には元就・輝元連署書下(松江1300)によって、天野隆重に進置かれた所領の中に「加々三百貫」とみえ、翌一三年に比定できる五月一〇日大野氏知行分書立(松江1330)にも「おあし三百貫」とみえる。三百貫という数字が一致する事から、「加賀大蘆」「加々」「おあし」とは同一の所領と考えられる。「加賀」といっても「円福寺」「野波」が別にみえることから加賀庄全体ではなく、加賀浦を中心とする地域を意味している。隣接する大蘆浦を併せて「加賀・大蘆」と呼ばれたり、加賀に代表させて「加々」と表記したり、大蘆に代表させて「ああし」と呼んだものである。ここから分かるのは、大蘆浦が加賀浦に匹敵する存在であったことである。単純に面積で言えば加賀浦が広いが、風待の機能は大蘆が上回っている。
 なお、不満な向きには、天文二二年加賀庄内熊崎天王奉賀覚書(松江1027)と天文二三年加賀庄内北講武八幡宮棟札写(松江1030)に、奉賀銭を分担する加賀庄内の所領がみえるが、その中に大蘆はみえないことを挙げよう。前者はこれも一種の天神であるが、菅原道真を祭神とする天満宮ではない。大蘆にも天満宮の南東側の垣之内に天王社跡があり、字「上天王」「下天王」が残っている。この垣之内には字「城山」(じょうやま)「的場」もあり、大蘆を支配する国人の館があったと思われる(後述)。さらに言えば、永享二年一一月一日杵築大社三月会正長二年分一番饗御神物引付(松江547)にも加賀庄を構成する所領が記されているが、そこにも三つ浦(御津)はあっても大蘆はみえない。そこにみえる加賀庄、長田東郷、枕木保、仁多郡布施社はいずれも結番帳の一八番に編成された所領である。これに対して北野末社(大蘆)は一番に編成されていた。ただし、後醍醐天皇が隠岐を脱出した際の勲功により、加賀庄地頭土屋氏の一族が大蘆を与えられ、大葦(蘆)氏を称したことは前述の通りである。引付には神物を負担した人物として「か々衆小華北垣兵衛」がみえるが、この人物は大葦内北垣(天満宮が所在)を苗字の地とする一族で、加賀庄内に所領を与えられていた。前述の垣之内の館の主であろうか。
 以上、関係史料をみれば、大蘆が加賀庄内の所領ではないことは明白であろう。

 

2020年1月 7日 (火)

大芦浦について2

   大芦に行き、旧天満宮跡と大埼川辺神社の境内社を確認した。大芦川沿いで地図からは耕地が多いように読み取れるが、案外と段差が多く、平坦ではなかった。最初に大埼川辺神社の境内に入ったが、本殿の左手に境内社があった。平成元年に遷宮をしたことが石柱に刻まれていたが、境内社に関する説明文は一切なかった。階段下には「島根半島四十二浦巡り再発見研究会」が島根県観光素材造成支援補助事業をうけて設置した看板がある。同会のHPにはさらに詳細な記述があるあが、その内容の精度は高いとはいえない。なぜ「大埼」が「おおはし」と読めるのだろうか。センスの問題であるが、「大」と「端(はし)」とは相容れない言葉である。「埼」の中で代表的・中心的なものに「大」という接頭語が付けられる。「大田」は大きな田ではなく、その村落で、最初に田植えをしたり、収穫をして神に米を供える田である。大田市に五十猛という地名があるが、近世には磯竹村と表記していた。そこに大浦湊があるが、これも中心的港であるが故の名前であった。滋賀県大津も同様である。「おおはし(大端)→おあし」とは風土記研究家加藤義成氏の説のようであるが、そう考えた根拠が理解できない。それ以上に、その説に疑問を感じない人が問題である。
 十分理解していないが、神社には芦高、芦屋という名前がみられる。この場合の「芦」はどういう意味だろうか。ホーランエンヤも近世芦高神社の神事であった。芦高神社(阿陀加江神社)という表記も問題である。松江市のHPに「城山稲荷神社から芦高神社神主松岡兵庫頭のもとに御神霊を渡御する理由が、松岡が高齢で松江城への登城が困難であったためと考えられる」と書かれているのをみて愕然としてしまった。芦高神社神主は代々松岡兵庫頭を名乗っており、代替わり後は登城が可能となるはずである。それにもかかわらず、渡御しており、浅はかな解釈である。前にも述べたように、風土記にみえる神社を現在の神社に比定するのはほとんど不可能である。一方、地図をみれば、大芦が島根半島有数の風待港であることは一目瞭然である。
 話を戻すと、大埼川辺神社の正遷宮が境内社と同年かを確認しわすれた。鳥居に「平成九年十月吉日奉寄進」と刻まれていたので、この年に遷宮が行われたと思い込んでしまった。正遷宮の寄付者の名簿が掲示されてたが、最後の年月日の部分を確認していなかった。今回は小具にある大埼神社は訪問しなかったが、ネットでみると、確かに女の神様を祀った神社の作りで、千木が水平に切られている。こちらの方が周辺の人口が多いので、整備状況は良好である。
 さて、川辺神社の前に車を停めて、大芦川と県道を越えて、天満宮と宝寿寺があった場所に歩いていった。「北垣集会場」という施設があり、近所の方二人に聞いてみた。会場は元宝寿寺跡だったが、天満宮については在ったことも知らないとの事であった。寺の東側が「天神前」であり(『島根町誌』)、歩いた感じでは会場背後の平地が天満宮跡かと思ったが、確証はない。その後、三人目の人にも聞いてみたが同様であった。大芦には「北野姓」がしばしばみられ、それが大芦が中世の北野末社ではないかと思った理由であったが、大埼川辺神社の寄附名簿には北野姓が六名あったが、「氏子」ではなく、「町内」に含まれていた。その数が少ないこととともに、「氏子」でないのに疑問を持った。聞き取りによると、北垣付近には北野姓は少なく、西部の小具や楡木が多いとのことであった。ちなみに、戦国期の天満宮と将軍大明神の神主は小具氏であった。宝寿寺については、西部の浜にある瑞光寺の僧が中興の祖となった関係で、瑞光寺の末寺となっていた。天満宮の大埼川辺神社への合祀とともに、近世には西部が中心となっていたことがうかがわれる。その背景には水運の拠点としての発展があったと思われる。宝寿寺も一旦廃寺となったの瑞光寺の末寺として再興されたが、その後無住寺となり本寺に吸収される形で消滅したのだろう。その意味で、天満宮と宝寿寺は中世的存在であった。

 

2020年1月 6日 (月)

大芦浦について1

 島根郡大芦浦は漁場と水運の拠点となる港湾を核とした地域である。小規模であるが風待ちの港湾としては東隣の加賀浦以上の環境といえる。『出雲国風土記』には当地の神社として西部浜の大埼社と東部大芦(森田)川西岸の大埼川辺社がみえるが(場所の移動の有無については不明)、一二世紀前半に、大芦の東端(場所はその後の情報で再検討中)となる大芦川東岸の北垣に北野天満宮の末社が勧請され、庄園として成立したと思われる。その地は後には字天神と呼ばれるようになった。一八世紀初頭の『雲陽誌』には出雲国内に天満宮が五九ヶ所みえるが、その内、近世以前に成立したことが確認できるものが九ヶ所含まれている。その中で最初に成立したのが大芦の天満宮であり、これを契機に各地に天満宮が広がっていったと思われる。大芦の西隣御津浦や南側で境を接する講武(中世は円福寺)も加賀庄に含まれており、大芦の地のみが加賀庄成立前に北野天満宮に寄進されていた。
 文永八年の杵築社三月会頭役結番帳の一番舞に北野末社、田数八町がみえ、地頭は東国御家人と思われる香木三郎入道であった。観応元年四月の文書の譲状の別紙として残された曼殊院門跡(天台宗寺院で北野社別当)所領目録には「出雲国天満宮」としてみえ、国内の天満宮の中心的存在で、唯一の天満宮の庄園であった。『雲陽誌』には大芦浦に天神宮がみえ、明治三五年島根県神社由緒書(八束郡 下)には「八束郡大芦村字天神天満宮」からの報告が含まれ、そこには宝物として、天正二年(一五七四)九月二五日御神鏡臺と天正一一年一〇月七日寄進天満宮祝詞箱が記されている。その後、天神宮は大正六年に約三〇〇メートル西側にある大埼川辺神社に合祀され、その境内社となり現在に到っている。天満宮から大芦川の上流約1.2キロから南西に分岐した谷を0.8キロ入った大芦村別所字将軍の地には上将軍大明神と下将軍大明神があるが、天正一〇年九月一九日の下将軍大明神を修復した際の棟札の記録が残っている(これは宝暦一二年の棟札を利用して作成されたものであった)。
 永禄五年九月二六日には富田城に籠城中の尼子義久から、祈念への感謝として、大芦内五〇俵が日御崎社(楡木の日御崎社が本社から勧請したものか)へ寄進されている。毛利氏が出雲国に入ると出雲国西部はその支配下に入り、毛利氏からの安堵状などが発給されているが、日御崎社には尼子氏の降伏に至るまで、毛利氏からの発給文書は残っていない。天文一一年(一五四二)の大内氏の出雲国入りの際は、日御崎社も杵築社との紛争の地である「三崎七浦」の安堵を大内氏に求めていたのとは対照的である。島根半島北側には日御崎社が勧請されている浦が目立つ。
 天満宮はあたかも大芦川沿の耕地開発を進めるための拠点となる地に勧請されたが(これも再検討中)、近世以降は水運の発展を背景に、西部の浜の地が中心となっている。海岸沿いの道の両側にあたかも町を思わせるように、家が立ち並んでいる。大芦を拠点とする船が、隠岐国から牛革を播磨国へ運んでいた史料も残っている(楡木の南屋=北野氏であった)。

2020年1月 5日 (日)

白河院と知行国制2

 俊実の子は忠隆(高)・保隆・実保・実隆と、俊実の父隆俊にちなむ名前をつけられているが、その任官が史料で確認できるのは、天仁二年(一一〇九)正月に六四才の俊実が権大納言を辞して忠高(隆)が美濃守に補任された事のみである。天永二年四月にも忠高の美濃守見任が確認でき、翌三年二月には春日祭上卿を勤める忠通の前駈の中にもみえている(『中右記』)。ここからすると忠高は俊実の晩年の子であった可能性が高い。一方、資綱には道方娘を母とする家賢と道良がいたが、家賢の子は家俊、道良の子は俊兼と、いずれも「俊」の字を名前に付けている。任官の記録としては、家俊が永久元年(一一一三)~元永三年(一一二〇)にかけて伊賀守であったことと、大治二年(一一二七)に前陸奥守であったことのみである。家俊の生年は不明だが、その父家賢は俊実の二才下であり、家俊は忠高より年上で、従兄弟の俊兼とともに俊実の養子となったのではないか。このことが、『古事談』の逸話で顕基の子資綱が俊実に変更された背景ではないか。後継者が生まれない場合に、親戚から養子を迎えることはよくあることであった。問題は俊実が知行国の返上と改給を求めた際の国守が誰かであるが、実子忠高ではなく、養子であった家俊ではないか。家俊は国名は不明だが、伊賀守以前にも受領経験があったと思われる。この俊実の好意の背景に、家俊の曾祖父顕基が俊実にしめした配慮があったと解釈してのではないか。ただし、検討したように物理的にあり得ないことであった。
 次に二例目が俊実の叔父にあたる俊明とした場合の国守であるが、俊明の子で受領補任が確認できるのは、天治二年(一一二五)正月に伊賀守に補任された憲明のみである。憲明は永久四(一一一六)年一二月一九日に民部省役人が民部史生桜井宿祢松枝を備後国大目に補任するよう申請しているが、その中に「従五位下守権大輔源朝臣憲明」がみえ、民部権大輔と国名は不明だが国守を兼任していたことがわかる。これに対して俊明の嫡子能俊が叙爵したのは承暦四年(一〇八〇)正月、従五位上に叙せられたのは応徳二年(一〇八五)正月である。憲明がなお従五位下であった二九年前に能俊は従五位上となっており、憲明が俊明の晩年の子であったことは確実である。ちなみに能俊誕生時に俊明は二七才であった。
 俊明は大納言兼民部卿であった永久二年(一一一四)一二月に病気で出家し、七一才で死亡しているが、その晩年に憲明を自らの知行国の国守にしたのではないか。当初二例目の候補とした権大納言藤原公実よりは国守とすべき「切実な」(将来が案ぜられる)候補者があり、こちらの可能性が高いと考える。推測に推測を重ねたが、最大の成果は、院分国の変化と知行国制の変化が連動していることを確認できたことである。『古事談』については鳥羽院が崇德院を叔父子と呼んだ逸話が有名であるが、河内祥輔『保元・平治の乱』では、これは平治の乱で失脚した藤原惟方からの情報に基づくとして、信憑性があると評価されていた。ただし、今回の源顕基の逸話は後の結果に影響されていることが明らかであり、「叔父子」も崇德院の没落という結果に基づく後付の解釈である可能性が高い。実際に、樋口健太郎『中世王権の成立と摂関家』では角田文衞氏の解釈が否定されている。今回も偶然から着手したが、難しい作業であり、疲れた。

白河院と知行国制1

 知行国の返上・改給で述べた内容について、具体的に再検討する。最初に、藤原基隆が康和三年以降の返上・改給の先例を挙げていたが、これと、院分国が康和元年時点で増加していたことは関連があるであろう。承徳三年(一〇九九)六月の関白師通の死が変化のきっかけとなったことは前述の通りである。院分国のみならず、院近臣に与えられた知行国の数も増加したのである。
 先例の二番目に挙げられた「大納言藤原朝臣」については、権大納言藤原公実に比定して検討したが、『大日本史料』では藤原ではなく「源」の誤りヵとしている。とすると大納言源俊明となる。公実は鳥羽天皇との外戚関係を背景に関白補任を求めたが、迷う白河院に対して、要求を容れるべきではないと進言したのが俊明であった。その嫡子能俊も白河院、鳥羽院、待賢門院庁の中心となった。ここでは三例目に挙げられた権大納言治部卿俊実について検討し、それを踏まえて俊明について検討を加えたい。俊実の父隆俊は宇治大納言隆国の子で、俊明より一九才年上の同母兄である。
 『古事談』には隆国の四才年上の同母兄顕基が藤原頼通のもとを訪れた際の逸話が収録されている。顕基は後一条天皇の寵臣であったが、天皇が死亡し七回忌が済むと二君に仕えないとして三七才で権中納言であったにもかかわらず出家し、永承二年(一〇四七)九月に四八才で死亡している。一方、頼通は治暦四年(一〇六八)四月の後冷泉天皇の死亡により宇治に籠居している。顕基が死亡した時点で頼通は五六才であった。出家の身で頼通のもとを訪れた顕基は俗世の話題には触れずに夜明け近くに帰ろうとしたが、帰り際に「俊実は不覚者である」と述べたという。俊実の父隆俊は顕基の甥であるが、『古事談』や同様の逸話を載せる『撰集抄』では顕基が「子息」だとされている。現実的に可能な解釈としては、俊実の母が顕基の娘ということぐらいであろうか。俊実の誕生の翌年に顕基は死亡している。頼通が死亡した時点で俊実は二九才正四位下で、一方、顕基の嫡子資綱は父の出家後の長元九年(一〇四一)正月に正五位下、翌二月には妻の父民部卿源道方の譲りで従四位下に叙されているが、その三年後(一〇四四)に道方は七七才で死亡している。それが顕基死亡直前の永承二年八月に蔵人頭に補任されている。俊実が述べた子息とは俊実ではなく資綱であった可能性が高いが、それが俊実に変化したことには背景があるのではないか。

 

2020年1月 3日 (金)

女性の系譜情報2

 有綱の死亡記事はその没年の『中右記』が残っていないことを述べたが、宗忠の従兄弟となる、有綱の嫡子実義が嘉承元年九月一一日に四〇才で死亡したことについては、翌一二日条に記載があり、その経歴を述べるとともに、「一家之間殊所悲歎聞也」と結んでいる。この時、宗忠自身は四五才で、父宗俊が一七才時の誕生である。とすると宗俊は四兄弟の末弟有定よりも三才年少であり、宗忠の母は四人の妹である可能性が高い。
 一方、有綱の娘と源義家の間に嫡子義忠が生まれた時点(一〇八三年)で、有綱の嫡子実義は一七才である。義忠の母となる女性は、実義と年の近い姉妹であろう。有綱と実義の名前との間に共通する字はなく、姉妹の夫となった義家は実義よりも一八才年上である。実義は祖父実綱の「実」と義家の「義」をその名に付けた形となっている。実義が元服した時点で、その姉妹が義家の室となっていたのではないか。とすると、義家の室は、実義の姉である可能性が高い。
 以上のように、日野氏の系図には情報が残らない女性が、その子との関係で生年などの推定が可能となり、生年から、兄弟・姉妹間の位置を推定できる。為義は母の実家日野氏と、為義の子義朝は母の実質的保護者であった藤原清隆(母の父忠清が出家したため)との関係が強かった。頼朝の同母妹である坊門姫が父が死亡した平治の乱後、清隆・光隆父子のもとで育てられたことは、前述の通りである。

2020年1月 1日 (水)

女性の系譜情報1

 何度も述べているように、平忠盛の正室藤原宗子(以下では父宗兼の姉妹宗子と区別するため池禅尼と呼ぶ)は藤原宗兼の娘としてみえるが、その母については記されていない。宗兼の室として知られているのは藤原(日野)有信の娘のみであるが、宗兼の子で母が有信の娘と記されているのは嫡子宗長と興福寺権大僧都となった覚長のみで、高階泰重との間に泰経を産んだ女性についても母は記されていない。系図から得られる女性に関する情報の多くは、男性Aの母親が「B女」であると記しているものであるが、系図でBを調べても娘は記載されていないことが多い。『尊卑分脈』で有信をみても宗兼の室となった娘は記されていない。藤原有定は実綱の四男で、同母兄に有綱、有俊、有信がいたことはわかるが、『中右記』の記主藤原宗忠の母となった姉妹についても記載がない。
 『中右記』に有定の死について具体的に述べられていたことは前述の通りである。有綱(その娘が源義家との間に義忠、義国、為義を産んでいる)の死亡時期分の『中右記』は残って居らず、有信も『中右記』目録中に「左中弁有信卒去、〈六十、〉仍籠去〔居ヵ〕」とあるのみである(これに該当する時期の本文は残っていない)。有信の子資光の死については感慨を含む具体的な記述があったことは前述の通りである。残る有俊については、康和四年一月六日条にその具体的経歴を述べた死亡記事がみえ、宗忠が籠居したことが述べられている。有定の死亡も有俊からもたらされ、それを知った宗忠は籠居していた。有俊に関する情報は『中右記』に何度も述べられている。以上の点から、宗忠の母は有綱、有俊、有信、有定の同母姉妹=源道成の娘であると断定してよかろう。
 自身では池禅尼の母を明記した系図は未見であるが、有信の娘であると記す文章はネット上ではあるが見たことがある。その可能性は高いが、明証が無いと言われればその通りである。従来は禅尼の父宗兼の姉妹である宗子が藤原家保との間に産んだのが家成である点のみ強調されてきた。ただし、宗兼と宗子の母が同一であるかはこれも情報がない。禅尼の兄弟宗長が待賢門院判官代となり、一方では摂関家家司となっている点と禅尼が崇德天皇の子重仁の乳母となった点は、禅尼の母が日野有信の娘であることを示していると思われる。日野氏は代々摂関家家司となっている。日野実光と有定の娘の間に産まれた資憲は崇德院の側近であるとともに、摂関家とも深い関係を有していた(樋口健太郎『中世王権の形成と摂関家』)。禅尼の嫡子家盛について、父方の姉妹宗子と藤原家保の子家成との関係が指摘されるが、どうであろうか。家保の嫡男は家成の同母兄顕保であった。

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