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2019年12月22日 (日)

中世史研究への感想

 ここ二、三年はそれまで知らなかった分野の関係史料や論文を読むようになった。自ら歴史研究に利用できる時間が増えたことがその背景にある。新たな基盤となる知識・データを得ることで、一つの史料を分析する際に、従来は気づかなかった視点から調べ、考えるようになった。現在の自分は特定の時期やテーマではなく、関係史料からどこまで情報を引き出すことができるかを考えている。それがブログの「資料の声を聴く」という題名にも現れている。最近出逢った各専門分野の研究は一見精緻であるが、必ずしも十分な精度が担保されているとは限らないし、論争についても、簡単に白黒がつけられない問題に強引に結論を出そうとしている傾向がある。結論を出す事で次の段階へ進むこともあるが、一方で見えなくなるものもある。また研究の間口(守備範囲)の狭さを感じ、時代をとらえる研究としては違和感を覚えることがある。
 以前から研究論文中の「‥‥権力」という用語に違和感を覚えていた。現在の日本の政権(内閣)についても今後その用語を使い分析されることがあるかもしれないが、トップとその周辺にうごめく人々が明確な意思と明晰な頭脳をもって行動しているとは思えない。トップが変われば状況は大きく変わるであろうが、それは「‥‥権力」という用語で表現できるようなものではない。
 歴史上の人物で、最も厳しい評価にさらされている人物といえば、後白河天皇(院)ではないか。その背景に、近臣信西入道による評価があり、本来、一院となることを前提とした経験を積んでいなかったことが指摘される。一方で院政を開始したとされる白河院も父後三条天皇が摂関家から皇位継承から除外されようとされたため、急に脚光をあびた人物である。天皇親政を開始した父が即位後五年で死亡した時点で二一才であった。後三条の長子であったが、親王宣下は父が即位した一六才時であり、父からの譲位により二〇才で即位はしたが、本命の後継者である異母弟実仁親王即位までのつなぎであった。実仁の母は道長との対立により皇太子を辞退した敦明親王(小一条院)の子で臣下となった源基平の娘基子で、摂関家を外戚としなかった。これに対して白河の母は閑院流藤原氏公成の娘で、道長の四男能信の養女であったが、実仁は後三条の即位後の誕生で、後三条の譲位の時点では三才でしかなかった。白河の母茂子については生年が不詳であるが、皇太弟で一三才となった後三条への副臥として入内し、七年後に白河を産み、さらにその九年後に死亡しているが、後三条との間に一男四女をなしている。元服した後白河に入内し、二条天皇を産んだ源懿子は母待賢門院の同母姉公子の娘(後白河の従姉妹)であった。同じく従姉妹である藤原成子は待賢門院の異母弟季成の娘で、懿子が二条の出産直後に死亡したため、後白河の寵愛を受けたが、後白河との間に産んだ二男四女は末子休子内親王を除き後白河即位前の誕生で、子以仁王も皇位継承者の候補にはならなかった。成子は高倉天皇を産んだ平滋子と異なり女官から女御となることもなかった。
 トップではないが、藤原頼長はその日記『台記』を通じてその人物像を知ることができることもあってその問題点を指摘する意見も枚挙にいとまがない。以前のものでは橋本義彦氏(四年前に九一才で死亡)による評伝(人物叢書)とともに横井清氏(今年四月に八四才で死亡された事を知る)の『中世を生きる人々』が印象深かった。近年では元木泰彦氏の評価が知られているが、頼長の評価は未だ定まってはいないのではないか。信頼と比較される藤原信西については、研究論文はあっても一冊の評伝となる著書は未だない。
 とりとめなく述べたが、他者の研究論文は参考になり、そこから刺激を受ける一方で、一部の秀作を除き、不満を感じることも多い。秀作が増えることを期待したいが、実績ある研究者は高齢化し、後継者は必ずしも育っておらず、全体の層は薄くなっている気がしてならない。

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