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2019年12月29日 (日)

出雲国における八幡宮別宮の勧請1

 従来から八所八幡という言葉が使われ、出雲国内の石清水八幡宮の別宮八ヶ所の勧請と庄園としての成立時期は、延久の荘園整理令と保元新制(荘園整理を含む)の間であることが言われているが、これはただ史料の内容を確認しただけで、問題はその先の分析で、それを欠いた論文は研究としての要件を欠いたものである。これまで、院御願寺領と摂関家領の成立を通して、出雲国における領域的庄園の成立は白河院政後期とそれに続く鳥羽院政期であることを述べてきた。この点を八幡宮領について検証したい。
 康治二年の官宣旨と太政官符の関係については前述の通りであるが、知行国主・国守と在庁官人の利害は共通するものと相反する両面を見なければならない。八幡宮領は、出雲国衙の在庁官人の筆頭である勝部宿祢領に隣接していることもすでに述べた。その前提として所在地の確定が不可欠であったが、従来、飯石郡北部に比定されていた大田別宮が、塩冶郷内上郷の地に所在したことも明らかにした。
 保元元年に石清水八幡宮の別宮(庄園)が多いのは、畿内を除けば、但馬国と出雲国である。また鳥羽院政期に能登国で成立した庄園は一ヶ所を除き、持明院通重が国司であった時期(一一四〇~四七)に成立したものであることを明らかにした。通重の同母弟で後任の能登守となる基家が久安四年(一一四八)正月に一七才で能登守に補任されていることと、通重の長子一条能保の誕生が久安三年であることを勘案すると、通重は能登守補任時に基家より年少であった可能性が高い。何を言いたいかといえば、能登国の支配を行ったのは待賢門院庁の中心で、久安四年一〇月に五八才で死亡した父通基であったことである。通基の父基頼が能登守時代に北野八幡宮に庄園寄進を行っていることから、出雲国島根郡内北野末社は、出雲国が待賢門院分国であった時期(一一三〇~三八)に通基により寄進・成立したとの説も示した。この当時の通基は因幡守で、次いで後に通基の娘を室とした西園寺公通と相博して丹波守に遷任している。

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