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2019年12月29日 (日)

出雲国における八幡宮別宮の勧請2

 天永二年(一一一一)六月二五日に平浜別宮の遷宮日時を七月二八日とすることが定められている。延久の荘園整理令の四二年後であり、勧請・造営に伴うものであったと考えられる。当時の出雲守は嘉承三年(一一〇八)正月補任の藤原顕頼で、父顕隆が知行国主であった。翌天永三年に遷宮が行われた杵築大社造営の開始は天仁二年(一一〇九)年であった。これに先行、ないし平行する形で、平浜別宮の勧請が行われ、天永二年の遷宮となったと思われる。この時点では出雲国内における庄園の比率は低く、別宮勧請と大社造営との間の矛盾は大きくなかった。
 第一歩となった平浜別宮勧請に続いて、他の別宮が勧請された時期を考える材料は、保元元年時に出雲国とともに八ヶ所の別宮があった但馬国との共通性である。すなわち、大社遷宮が政府の報告を含めて終了したのを受けて、永久二年末に顕頼に代わって三河守から遷任してきた藤原隆頼は保安二年(一一二一)末まで七年間出雲守であった。父で院近臣である基隆が知行国主として実権を握っていたと思われる。同時期基隆は、院近臣有力者の指定席である播磨守であったが、その一方で、元永元年(一一一八)には嫡子で隆頼の異母弟である忠隆を但馬守として、但馬国知行国主の地位にもあった。出雲国で石清水八幡宮の第二番目以降の別宮が知行国主基隆の時代に勧請されるようになった可能性が大きい。在庁官人も自らが郷司である公領に隣接する場所に別宮を勧請することで、基隆との関係を強めることができた。ただし、安田別宮・横田別宮・赤穴別宮は大規模領域庄園であり、その成立はやや遅れると考えるべきである。
 出雲国はその後も、藤原為隆の子憲方、基隆の子経隆(忠隆の同母弟)、待賢門院庁と鳥羽院庁のトップであった源能俊の子から藤原基隆の養子となった光隆(後に源姓に戻る)が国守となり、中央との太いパイプを維持した(ただし、基隆は一一三二年に死亡しており、出雲国は女院分国であった)。そうした中で、大規模な御願寺領や摂関家領が次々と成立した。一方で、杵築大社造営が課題となる中、保延四年末には院近臣藤原清隆の子光隆が安芸守から遷任してきた。光隆は一方で庄園の寄進を認めつつ、大社造営が本格化すると、軸足を庄園成立から造営の実現に移し、短期間で遷宮にこぎつけ、久安二年末には再任の藤原経隆と相博して但馬守に遷任している。
 以上、出雲国における石清水八幡宮の別宮勧請と庄園成立の第一段階は院近臣藤原基隆が出雲国知行国主であった時期に行われた可能性が高いことを述べた。
(付記)『上之郷神社誌』には保延年間(四年ヵ)と文治年間(五年ヵ)の大田別宮の棟札が掲載されている。一部判読が困難なヶ所もあるが、当時のものとしては不自然な内容が含まれている。ただし、大田別宮が塩冶郷内のこの地にあった点は事実あろう。保延四年とすると、国守源光隆の時代である。

 

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