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2019年12月28日 (土)

藤原有定・有隆父子6

 以上、名前を知る程度であった藤原有定・有隆父子と益田氏ならびに、長野庄・益田庄との関係を述べた。有隆の子達は父と同様源有仁に仕えていたが、一方では崇德院の側近日野資憲の母は有隆の姉妹であった。長野庄は崇德院へ、益田庄はその中宮であった皇嘉門院に寄進されたが、有定-有隆とその子達は、待賢門院・崇德院・兵衛佐局と摂関家出身の皇嘉門院の両方との関係を有していた。これが、益田氏系図で祖国兼が日野有隆に結びつけられた背景であった。なお、兵衛佐局が崇德天皇の寵愛を受け、保延六年に重仁親王を産むと、中宮聖子の父忠通と崇德の関係が悪化し対立に転じるとの説があるが、仁平二年(一一五二)には忠通の長子覚忠が豊前国伝法寺庄を、同四年には中宮聖子の中宮大夫であった藤原忠教の子阿闍梨教智が摂津国難波庄を崇德の御願寺成勝寺に寄進しており、忠通-聖子との関係が悪化したとの説は誤りである。関係が変化するのは、崇德と父鳥羽との関係と同様、久寿二年(一一五五)七月の近衛天皇の死以降である。長野庄の第二次寄進と益田庄の寄進も関係が変化するまでに行われたであろう。
 最初に述べた院分国については、関白師通の死後増加し、堀河天皇の死後、継続するようになったと思われる。女院分国が継続するようになるのは待賢門院の御願寺円勝寺の造営の頃からであろう。 

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