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2019年12月28日 (土)

藤原有定・有隆父子4

 益田氏系図には登場しないが、日野氏系図によると、有隆の姉妹(有定の娘)が日野氏惣領となった実光の室となり、その間に産まれたのが、本ブログで何度も述べた日野資憲である。これに対して高階重仲の娘を母とする異母弟が資長である。してみると、国兼を資憲の母の弟である有隆の子とするのはずれているが、明解な回答は保留せざるを得ない。一方、資憲は崇德院の側近で、本ブログで長野庄の第二次寄進は崇德院庁に対して行われたとの説を提示した。また、「諸氏家牒本石見益田家系図(柿本朝臣)」に基づき、国兼は宗季の庶子で、嫡子は兄弟国季・国頼・国宗の中で、父の季の字を付ける国宗であったとの説も示した。宗季・国季・宗兼の名からは源国保の前任の石見守であった藤原宗長との関係がうかがわれる。久留島氏が示された長野庄関係系図によると、長野庄立券時の豊田郷(国俊)、角井郷(国高)、吉田郷(国盛)、安富郷(国兼)の下司の名にはいずれも「国」の字がみえ、得屋郷の下司は国兼の養子宗兼であった。 
 資憲の室の父が叔父資光で、長承一年(一一三三)二月に五〇才で死亡するまで、待賢門院庁の中心人物であった。大治四年(一一二九)八月に女院の侍である卜部兼仲が石見守に起用され、翌年一〇月には九才の源光隆(女院庁の別當の筆頭源能俊の子で藤原基隆の養子となる)が出雲守に補任されている。両者は計歴(兼仲)と年齢(光隆)から、女院分国でなければ国守に補任されるはずのない人物である。女院分国となった石見国の支配に日野資光が関わったことは確実である。石見国の有力在庁官人でもあった長野庄と益田庄の関係者と資光との間につながりがあったであろう。益田氏系図で初代とされる国兼が資憲の母の兄弟である日野有隆の子であると系図に記したのは以上のような背景があったと思われる。本ブログでは長野庄は、西田友広氏が説くように、石見守卜部兼仲との関係で立庄されたが、それにとどまらず、藤原忠実の娘高陽院分国であった時期に、領域を拡大した第二次の立庄が行われたことを述べた。長野庄関係者に当時の国守源国保とその父雅国との関係をうかがわせる「国」をその名前に付ける人物が多いのはそのためである。益田の祖国兼も、長野庄立券に参加し、次いで、藤原忠通の家司でもあった石見守源季兼のもとで、藤原忠通の娘である崇德天皇中宮聖子(皇嘉門院)に益田庄が寄進・立券された。

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