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2019年12月16日 (月)

石清水八幡宮領横田庄と須佐郷

 保元三年には出雲国内に八ヶ所の石清水八幡宮の別宮がみられ、近世には八所八幡との言葉が確認できるが、その八社は保元三年の八社から、飯石郡赤穴別宮・日倉別宮、神門郡大田別宮が消え、これに替わって飯石郡須佐八幡宮・由来八幡宮、大原郡木次八幡宮が加わっている。後者の中で須佐郷は建武四年に足利尊氏によって地頭職が石清水八幡宮に寄進されているが、由来と木次については八幡宮領になったことは確認出来ない。横田庄は建武元年に地頭方が後醍醐天皇により庄園領主石清水に寄進されたが、建武政権の崩壊により地頭方は天皇家領となった。一方、石清水八幡宮に関する史料はそれ以降残っていない。
 須佐郷には杵築大社国造家の一族が神主であった須佐神社がある。須佐郷司も鎌倉初期には国造の同族である出雲宿祢であったが、承久の乱後は東国御家人が地頭として補任された。文永八年の地頭は相模守北条時宗であり、須佐神社の中世後期の棟札には鎌倉時代に二度に亘って将軍により造営が行われた事が記されている。横田庄も文永年間に地頭職が三処後家尼(妙音が尼の一族であるとの説が誤りであることはすでに述べている)から六波羅探題に就任した時宗の異母兄時輔に寄進され、時輔殺害後は幕府の管理下に時輔の母尼妙音が地頭となった。一方、三処郷地頭でもあった後家尼の子達が時輔のもとで横田庄地頭代を務めていたが、妙音の時代に解任され、三処郷地頭職も没収された。三処郷地頭職も後醍醐天皇により鰐淵寺南院に寄進されたが、建武政権が崩壊したことで安定的支配は実現しなかった。
 須佐郷地頭職を得た八幡宮は、貞和三年には須佐郷が杵築大社三月会の頭役を負担する事に抵抗している。その後の史料は欠いているが、須佐郷内には近世にも八幡宮領があった。それを示すのが、慶長年間の須佐御公用算用帳である。ここに記された高二〇〇石は近世を通じて維持されている。須佐八幡宮(現在は大呂神社に合祀されている)が鎮座した地域は八幡村と呼ばれた。石清水八幡宮には横田庄に関する建武政権崩壊後の史料は残っておらず、皇室領としての実態が知られるのみである。このことが、尼妙音没後の横田庄地頭職の移動が横田庄そのものの移動と誤解された理由であろう。可能性の問題であるが、八幡宮側は室町幕府のもとでは横田庄に比べて安定的支配が見込めた須佐郷地頭職を選択したのではないか。そのため、室町期に横田庄領家職も地頭職とともに皇室領となった可能性が高い。
 ちなみに当方は、『竹矢郷土誌』(一九八九年)の中世編の中で、得宗領・北条氏領について論じ、横田庄地頭職と三処郷地頭職の問題について明らかにしている。

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