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2019年12月19日 (木)

上来島村杉戸金屋子神社棟札3

 長谷川氏は棟札の「鑪鞴鍛煉繁昌悪魔退散」部分と鑪鍛冶の「銀一封」に疑問を呈して、これを偽作されたものと評価された。ただし、従来の通説を特に検証されてはいない。「あたり前田のクラッカー」ということであろうか。通説によれば鞴は近世以降の技術であり、天文二〇年時点の銀の流通はありえないと。「悪魔退散」というのも棟札にふさわしくないと思う人もあろうが、同神社の文禄二年の棟札にもあり、また、天正一一年の生馬村薦津天若宮神社の棟札にもみえ、これは問題にはならない。銀の流通については、論者の一人から寄贈を受けた『戦国・織豊期の西国社会』(二〇一二年)所収の川戸貴史氏「銀貨普及期京都における通貨使用」をみると、従来の検討に『鹿苑日録』の売買記事の検討結果を踏まえて。京都における銀の使用が他種(銭、金)を凌駕するのは一五九〇年代半ば以降としている。
 京都に対して、上来島神社が所在した出雲国西南部飯石郡はどうかであるが、飯石郡は石見銀山のある石見国西部とは境を接している。飯石郡須佐郷は、文永八年には得宗北条時宗が地頭であり、幕府滅亡後は後醍醐により没収されたのは確実であるが、後醍醐に叛旗を翻して室町幕府を開いた足利尊氏が建武四年には須佐郷地頭職を石清水八幡宮に寄進している。貞和三年には須佐郷が杵築大社三月会の頭役を負担する順番となったが、同じ宗教勢力であることを理由に免除を求めている。その後しばらく八幡宮関係史料はないが、慶長一一年から一七年にかけての石清水八幡宮領出雲須佐公用算用帳が残されている。現時点で内容を確認したのは、その写が筑波大学図書館所蔵石清水八幡宮文書に含まれる慶長一二年(HPに画像が公開)と一五年のもの(史料纂集古文書編三〇『石清水八幡宮文書外』)であるが、年貢が銀で代納されている。上来島村棟札とは五六年の差があるが、棟札は石見銀山が発見された大永七年(一五二七)の二四年後である。注目したいのは、棟札の翌年の天文二一年一〇月一〇日には、杵築の有力商人坪内氏が尼子氏から備後国人への使者を務めた功により、石見銀山屋敷五ヶ所の安堵を受けていることである。当時の銀山は大内氏の支配下にあったが、商人坪内氏が銀山に拠点を持っていたことは確実であろう。尼子氏の使者を務めたことは、坪内氏と大内氏の関係を悪化させる可能性があるが、尼子氏が安堵した背景には近々軍事行動により銀山を掌握する意図があったからであろう。実際に翌二二年には山吹城を攻略し、銀山とその周辺を掌握している。
 上来島金屋子神社に奉賀を行った鑪鍛冶師は鉄の生産とともに流通にも関与しており、坪内氏と共通の商人としての性格を有していた。彼らもまた銀山と銀への関与を深めており、神社造営費用への奉賀として「銀一封」と記したのは銀が秤量貨幣で、且つ神への贈与であることを踏まえると何の問題もない。鞴の問題はなお残るが、この棟札が鞴に関する史料の再検討を迫る重要な史料であることは間違いない。長谷川氏とは異なり、この棟札と奉賀帳は正しい史料であるというのが当方の現時点での見解である。

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