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2019年12月28日 (土)

藤原有定・有隆父子3

 話を有定に戻すと、寛治一年(一〇八七)七月には内大臣藤原師通の家司として「淡路守有定」がみえる(『為房卿記』)。日野氏からは摂関家司となっている例が多い。嘉保一年(一〇九四)には「治国」により従五位上に叙されており、淡路守を退任していた(後任藤原行実を経て同じく摂関家家司であった藤原為隆が淡路守見任)。嘉保三年八月には寵愛していた郁芳門院が死亡し、康和元年(一〇九九)六月には堀河天皇と結んで政治を主導していた師通が死亡している。こうした中で白河院を制止する力は弱くなった。「益田氏系図」には有定が寛治八年二月二日に五三才で死亡したと記している(これそのものは『尊卑分脈』と同じ)が、『中右記』嘉保元年三月一八日条には早朝に有定の兄弟である安芸守有俊から書状が届き、所労により日野に参籠していた有定が夜半に死亡したことを知り、涙を流したことが記されている。有定・有俊の姉妹が記主宗忠の母であった。そこには有定について、式部大輔実綱の第四子で、故右大臣藤原俊家の支援で縫殿助となり(姉妹が俊家の嫡子宗俊の室であった)、後三条が白河天皇の皇太弟とした実仁親王の春宮少進となったことが記されている。
  ところが、実仁が応徳二年(一〇八五)一一月に早世すると白河は翌年に子堀河に皇位を譲り、実仁の同母弟輔仁を冷遇した。これにより有定は職を失ったが、そこに手を差し伸べたのが実仁の祖母陽明門院であり、淡路国が自らの分国であった年に国守に起用したのである。有定は五二才で死亡したと記されており、寛治一年には四五才であった。任中に公文を済ませたことで、従五位上に叙せられた。
  有定の子有隆は康和一年(一〇九八)と永久三年(一一一五)にいずれも文章生としてみえ、後者では輔仁親王の一宮有仁が元服して白河院のもとを訪れた際に、源行宗とともに前駈を務めている。行宗と共に、有仁に仕えていたのであろうが、出世という面では不利な状況にあった。なお、行宗の一五才年長の同母兄季宗は皇太弟実仁の春宮権大夫であった。春宮大夫は閑院流藤原公実の父実季であった。
  次いで保安三年(一一二二)正月には有隆が従六位上相当の民部少丞から正六位下相当の大丞に昇進している。それ以降の有隆に関する史料は確認できないが、尊卑分脈には従五位下相当の式部少輔と記されている。有隆の祖父実綱は式部大輔兼文章博士であり、保安三年以降に式部大丞から式部少輔に昇進したのだろう。分脈には有隆の子である有義と季隆には花園左府(源姓を賜った有仁が左大臣となり花園離宮を与えられた)勾当と記されている。益田氏系図一本宗季の子とされる国兼とその父ともされる有隆の活動時期に矛盾はない。分脈には国兼を有定の子としているが、そうするとその活動時期の下限は一二世紀の第二四半期半ば頃となるが、益田氏の祖である国兼の活動時期の下限は第三四半期であり、有定ではなく有隆の子の世代に相当する。

 

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