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2019年12月19日 (木)

上来島村杉戸金屋子神社棟札2

 収集した棟札の中から市史に関係するものと注目すべきものを市史中世史部会で報告し、委員で共有した。とはいえ、見落としもあろうから、長谷川氏に写真撮影を伴う正式な調査が必要であることを伝え、それをうけたのが長谷川氏の報告書である。長谷川氏からは撮影した写真がCDに焼き付けたものが送られてきた。それ以外にも、曽根氏は県内の寺社を訪問して文書調査を行っており、その中にも注目すべきものがあった。安来の雲樹寺のメモには、南北朝期の国造清孝が後醍醐から帰依を受けた孤峰覚明に依頼し、杵築社内に神宮寺、雲樹寺内に杵築大明神を勧請しあうとともに、袈裟を与えられたことが記され、戦国期に雲樹寺から再度僧が派遣されたことに関する文書があった。大内氏が出雲国を攻撃した際に、千家国造や神宮寺住職は大内氏方となったため、大内氏が敗退する際に、一緒に国外に逃れた。千家国造は、前国造の娘聟であったため、再度分家から娘聟を迎えて国造とした。娘には男子がいたが、国造を相続する年齢に達していなかったため、そのような処置となったが、その男子が国造となることはなかった。これに対して神宮寺は本寺である雲樹寺から再度住職を迎えた。
 杵築大社神宮寺については、井上寛司氏により、戦国期に尼子氏の強引な大社への介入の結果設置されたというのが通説で、井上氏は永正一五年が神宮寺の初見史料とされたが、そこには永正六年四月二四日に尼子氏の派遣した造営奉行が神宮寺に宿泊したことが記されており、永正六年が初見である。尼子氏の介入が始まる前から神宮寺があったことがわかる。そこで関係史料を捜していたところ、南北朝期の古文書そのものは残っていないが、孤峰覚明の記録には上記の事実が記されていた。寛文の大社造営時に神宮寺は神仏分離の原則により境内内から排除されたが、その事を大社関係者が大社神宮寺の三〇〇余年の歴史が終わったと記しており、清孝の時点で神宮寺が設けられたのは確実である。本殿がある狭義の境内の中に神宮寺並びに三重塔、経蔵などがつくられたのが尼子氏の時代である。それまで神宮寺が現在の北島国造館の敷地内にあったのを移したのである。
 この神宮寺については井上寛司氏が、清孝の私的な寺院であったと評価された(『松江市史』)が、その説と神宮寺が清孝の譲りをその正当性の根拠とする千家方ではなく、清孝は一期分の国造で、後継者は指名できないと主張する北島方の管理下にあることは明らかに矛盾しており、再検討をお願いしたいところである。清孝の後継者をめぐり両国造家が分立したが、神宮寺は両国造家公認の存在であり、それが故に、尼子氏造営奉行の宿泊所にもなった。なお雲樹寺の残る大社神宮寺関係文書は従来の県史の調査では確認されていなかったが、近年の史料編纂所の調査に基づく報告書には新出史料として含まれている。
 話が横道にそれたが、上来島村金屋子神社の関係史料は火災で焼失して残らないが、以前は規模の大きな神社で鑪師の信仰を集めていたとされる。その天文二〇年神在(一〇)月一五日の棟札によると、赤穴光清が大檀那となり、鑪鍛冶鉄穴上来嶋村中が施主となっている。同年二月の奉賀帳には大山鍛冶屋虎之助、奥畑鍛冶屋勇兵衛、茂加谷鍛冶屋幸十等(その他は写本では略されている)が銀一封の加勢を行うとともに、上来島村金屋子神社の由来が記されている。そこには、村下八郎右衛門が従来の差吹に代えて新たに踏吹を採用したため、大量の生産が可能となったことが述べられている。八郎右衛門の新技術は上来島金屋子神社の神徳によるが、その神社の柱が朽ちて大風雪が防げないとして、今回の造営となったことが記されている。

 

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