koewokiku(HPへ)

« 藤原有定・有隆父子4 | トップページ | 藤原有定・有隆父子6 »

2019年12月28日 (土)

藤原有定・有隆父子5

最初に有隆の父有定について述べたが、有定は日野氏の一員として摂関家(忠実)家司である一方で、陽明門院分国である淡路守に起用され、後三条の後継者の本命とされた実仁親王に仕えた。次いでその子有隆は実仁の同母弟輔仁親王の子有仁親王に仕えている。一方、崇德院の子重仁を産んだ兵衛佐局は源行宗の養女となっていたが、行宗の娘が輔仁親王との間に産んだのが有仁であった関係で、行宗は有隆と共に有仁に仕えていた。
 ブログでは第二次の長野立庄は崇德院庁に寄進・立券されたことを述べたが、周防国玉祖社は、天治二年五月頃、白河院に寄進され下文を得たが、保延三年九月に待賢門院御願寺法金剛院に第二次の寄進がなされている。崇德院は待賢門院の後継者であるが、その一方では源行宗の養女として女房となっていた兵衛佐局との間に重仁親王をなしている。行宗は三条天皇の子小一条院の孫で、実仁親王と輔仁親王に仕えていたため、実仁の死と輔仁の失脚により昇進は停滞したが、保延五年正月に、昇殿を許されていた待賢門院御給で従三位に叙せられ公卿となった。行宗の娘と輔仁との間に産まれた怡子女王が賀茂斎院であった天養元年には行宗の子雅重(その室は平忠盛と白河院近臣藤原為忠の娘)が斎院庁官を務めているが、仁平二年には斎院長官の労によって正五位下に叙され、保元二年(一一五七)に斎院長官を息子・基能に譲る事が認められた。源有仁の室が待賢門院の同母妹であった関係で、同じ同母妹公子が産んだ経実晩年(四九才)の子懿子は、有仁の養女として待賢門院の第四皇子雅仁(後白河)の妃となった。
大治三年三月に待賢門院御願寺円勝寺供養が行われ、勧賞として仁和寺法親王(白河院の第五皇子覚法法親王)が円勝寺検校、大僧正行尊が別當、兵衛局佐の実父信縁法橋が執行・上座に補任されている。信縁は法印に叙された四年後の保延四年(一一三八)正月に五五才で死亡した。兵衛佐局の母は不明であるが、源行宗の室は信縁の従姉妹にあたる女性で、行宗の同母兄が前述の大僧正行尊であった。行宗は保延五年には待賢門院の御給で従三位に叙せられて七六歳で公卿に列しているが、その背景には兵衛佐局(行宗が二五才で補任された右兵衛佐にちなむ)が崇德天皇の寵愛を得ていたことがあろう。翌年九月には重仁親王が産まれている。


 

« 藤原有定・有隆父子4 | トップページ | 藤原有定・有隆父子6 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 藤原有定・有隆父子4 | トップページ | 藤原有定・有隆父子6 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ