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2019年12月12日 (木)

出雲国における領域型庄園の成立

 一つ前の記事以前では前斎院=禛子内親王としていたのが、「賀茂斎院」を詳細に述べたHP(大変詳細で信頼がおけるものである)では「禛子」が「禎子」となっており、やや混乱して前斎院を禛子内親王の後任であった官子内親王としてしまったが、明らかな矛盾があり、もとに戻した。禛子内親王は白河が寵愛した中宮藤原賢子との間の娘で、同母姉には媞子内親王(二一才で死亡し、これを嘆き悲しんだ白河が建立した持仏堂に平正盛が所領を寄進したことで有名)と令子内親王(甥である鳥羽天皇の准母とされ、即位後は皇后となる)がおり、堀河天皇は同母兄である。為隆子憲方は前斎院禛子内親王の申請により元永元年六月八日に叙爵している。
 『永昌記』には為隆がしばしば前斎院のもとを訪問したことが記されているが、保安五年四月九日条には、出雲守憲方が行った功を重任功と認めることとともに、前斎院の御封未済への前後策が政府で協議されている。そのためであろうか、二八日には、大宮領の五ヶ所が前斎院領として渡されることとなり、使者を荘園に派遣し、預人(預所、後の領家)に年貢を注申することを命じた院宣が出されている。為隆は二八日に続いて二九日にも前斎院のもとを訪れ、出雲守憲方と参会しているが、そのテーマは「御領事」であった。前述の五月五日条には憲方が前斎院の年預であったことも記され、五月一〇日には前斎院の職事補任について、藤原清隆を通じて執奏している。六月一九日には、四月に太皇太后宮から譲られた荘園五ヶ所への使者派遣について前斎院庁下文が出され、これに出雲守憲方が加判したことが記されている。この五ヶ所の中に園山庄が含まれていたとみてよかろう。
 問題は大宮=太皇太后宮が誰かである。同母姉令子は後に二条大宮、二条太皇太后と呼ばれているが、この時点では皇后宮であり、太皇太后宮とは後三条天皇の前任者である後冷泉天皇の皇后藤原寛子(四条宮)となる。大治二年八月一四日に九二才で死亡している(昭和天皇の皇后良子が九七才で死亡するまでは最年長の皇后経験者であった)。寛子は頼通の娘であるが、禛子内親王の母中宮賢子は摂関家藤原師実(忠実の祖父)の養女として入内していた。大皇太后寛子領が頼通領を継承したものとの推定も可能だが、寛子は後冷泉の死により三三才で出家し、三九才で太皇太后になっているが、その荘園は白河院が実権を持ったその後期院政時に寄進され、太皇太后宮領とされていたものであろう(頼通領を傳領した可能性もあると訂正)。
 以上のように、吉田経房が領家であった出雲国薗山庄は白河院政期後期に白河院のもとに寄せられ、大宮領とされたものが、保安五年に白河院の娘禛子内親王に譲られ、前斎院領となった可能性が高い。出雲大社正殿造営への協力を命じた康治二年三月一九日官宣旨でも、前回の天永三年の遷宮以降、庄園(不輸権あり)が立券され、加納(雑役のみ免除)が認められた所領が増加したことが述べられている。石井進氏は論文「院政時代」の中で一定の領域を持つ巨大庄園が増加したのは鳥羽院政期であることを明らかにしたが、その後、五味文彦氏の批判を受けて、白河院政後期以降とした。出雲国における領域型庄園の成立も同様である。園山庄と待賢門院御願寺円勝寺領となった長海庄の成立は鳥羽院政期以前であろう。これに対して、鳥羽院政期に成立した庄園として安楽寿院領佐陀社、後に八条院庁分領となった大原庄、歓喜光院領来海庄、崇德天皇の御願寺成勝寺領となった揖屋社と飯石社、それに崇德院庁分となった出雲大社領があった。出雲国内の大規模摂関家領が成立したのもこの二つの時期であろう。

 

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