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2019年12月28日 (土)

藤原有定・有隆父子1

 有定(一〇四三~九四)は日野実綱の子であるが、益田氏系図では祖国兼の父は有隆(有定の子)とされている。益田庄の立庄(寄進・立券)の中心となった源季兼の娘が日野氏惣領資長の室となった関係で、季兼が立庄した能登国の大庄園若山庄(田数五百町)は日野家領となっている。その流れから益田氏が自らの先祖を日野氏に仮託したとの説を示したことがある。益田氏系図では有定は源基成の子で当初は有房であったとの記載があるが、尊卑分脈では母が有信と同じとしながら基(道)成の子という矛盾した記述をしている。母が源道成の娘とするのが正しい。道成については「一一世紀の隠岐国司」で述べた。
 今回、有定に注目したのは、女院分国を考える中で、有定が後三条天皇の母禎子内親王(陽明門院)の分国淡路の国守に起用されていたことであった。五味文彦氏によると、女院分国は当初は一年を単位に認められたものであったが、後には摂関家や院近臣の知行国と同様、国司の任期と連動し、時には重任して二期八年続くようになった、前者のように一年単位の時点では、税の大半を与えられた可能性があるが、後者の時点では、知行国主と同様、国司の補任権ブラスアルファの権限となり、それがゆえに、院分国の数は拡大した。
 問題は前者から後者へどの時点で変わったかであるが、何も考えなければ、堀河天皇が死亡し、白河院が名実ともに治天の君となった時点が想定できる。ただし、実際の史料をみると、それ以前に変わっていたようである。『中右記』寛治七年(一〇九三)二月五日条には、「院分三个国、【能登一院・和泉陽明門院(禎子内親王)・丹波郁芳門院(媞子内親王)」とあり、能登が白河院、和泉が陽明門院、丹波が郁芳門院の分国であった。翌嘉保一年一二月一七日条には「藤仲実任参川国、是故陽明門院当年院分也」とあり、遠江国が陽明門院分国であった。女院が同年一月六日に死亡しているため「故」とある。一年を単位とし、一旦指定されると本人が死亡した場合でも継続されたことがわかる。とはいえ、遠江国からの税収がどう扱われたかは不明である。寛治五年には丹後国が女院分国で、待賢門院の従兄弟(保実子)である実信が国守に補任されている(柳原家記録)。同年の白河院分国は因幡国で、近臣藤原顕季の子長実が国守に補任されている.実信は一四才、長実は一七才という「年少受領」であった。実務はその父保実と顕季が行ったと考えられる。

 

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