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2019年12月10日 (火)

園山(神西)庄の本家

 園山庄の本家を記した史料は管見の限りないが、平安末期の領家吉田経房が斎院頒子親王と密接な関係を有したことは「園山庄領家吉田経房と五辻斎院」で述べた通りである。園山庄の成立は経房の祖父為隆(知行国主)と伯父憲方が出雲国司であった時代であると推定できることも前述の通りである。この点について補強したい。
 斎院について検索する中で、遠藤基郎氏の二〇〇〇年歴研大会報告のレジメがヒットした。そこには、『永昌記』天治元年(一一二四)五月五日の記事から、円宗寺御八講に際して、記主藤原為隆が前斎院に菖蒲を献じたことと、雲州(子憲方)が年預の故であることが述べられている。この記事そのものについては知っていたが、その意味を考えていなかった。そこで関連記事を探すと、『永昌記』四月一日の記事には、為隆が早朝に前斎院のもとに参り、御装束の更衣に奉仕するとともに、雲州から几帳一〇帖を献じ、別納の畳を改めて鋪いたことが記されている。為隆とその子憲方が前斎院に仕えていたことが確認できる。為隆は保安二年(一一二二)一二月一五日に遠江守を辞して子憲方を出雲守とし、翌三年正月に蔵人頭、一二月には参議に補任されている。前斎院とは白河天皇の娘禛子内親王で、康和元年(一〇九九)に斎院となり、嘉承二年(一一〇七)七月一九日に斎院を退下している。保元元年(一一五六)に七六才で死亡している。
 園山庄は為隆・憲方父子が仕えていた前斎院禛子内親王を本家として寄進・立券されたと思われる。禛子内親王の没後、園山庄の本家は不明確(機関としての斎院であり、個々の内親王ではない)となったのではないか。一方領家は、為隆から憲方へ、次いで憲方からその嫡子頼憲へ継承されたのだろうが、頼憲はともに藤原知通の娘を妻とする縁で関係を深めた藤原惟方(系図には「本名顕方、為惟方卿子」とある)が、平治の乱で失脚したこともあり、頼憲本人とその子が公卿となることはなかった。憲方の同母弟光房もまた公卿になることなく死亡したが、その子経房とその同母弟光長、異母弟定長は揃って公卿となった。こうした中で、園山庄領家は頼憲から従兄弟の経房に継承されたと思われる。斎院領であるが、本家の影は薄く、吉田氏領というべき所領であった。
[付記]前斎院は官子内親王ではなく、異母姉(母は白河中宮賢子)禛子内親王であり、それに伴い記述を修正した。
 

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