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2019年12月15日 (日)

鎌倉時代の赤江郷(保)1

 中世赤江郷は現在の田頼川と飯梨川に挟まれた地域の下流部に位置する赤江町を中心とし、田頼川西岸の西赤江町、飯梨川東岸の東赤江町を含む領域に所在した国衙領である。ただし、河川の洪水等の影響を受けやすく、その領域は何度となく変化した。その税が直接掃部寮に納入される便補保であったことから赤江保と呼ばれることもあった。この赤江郷については井上寛司氏「中世出雲国赤江保(荘・郷)と赤江八幡宮」(『道重哲男先生退官記念論集』、1994年2月)が唯一の専論としてあり、平凡社版『島根の地名』(1995年7月)の「赤江郷・赤江庄」の項も同氏による執筆である。ただし、その内容にはいくつかの課題があり、以下で再検討していく。
 文永八年杵築大社三月頭役結番帳によると公田数一八町三百歩で、地頭は大弐僧都であった。井上氏は大弐僧都の比定はできないが、中世成立期以来の赤江郷の領主が承久の乱の際に反幕府方(後鳥羽上皇方)に与して没落し、代わって大弐僧都が地頭職を獲得したものと推測されている。承久の乱と結番帳の間には五〇年の年月があり、大弐僧都が乱により地頭職を得た人物と同じ可能性は低い。それ以上に、能義郡は鎌倉初期から東国御家人が地頭に補任された所領が多く、治承・寿永の乱で平家方となったことにより赤江郷の領主(国御家人)が没落した可能性もある。
 井上氏は延慶元年(一三〇八)頃の年未詳九月二六日長井貞秀書状(金沢文庫文書)に「南方料所出雲国赤江保を本主に返した」とあることから、文永八年以後に、幕府の後押しを経て公領に戻されていた赤江郷が復興されて赤江保となったが、掃部寮ではなく六波羅探題料所となったことと、それが一四世紀初めに六波羅探題南方の金沢貞顕の好意により掃部領に戻されたとの解釈を提示された。 これが南北朝期の康永三年には「赤江郷」、正平八年には「赤江庄」と見えている(赤江八幡宮文書)。井上氏は鎌倉幕府の滅亡により赤江保が収公されて「赤江郷」と呼ばれたことと、観応の擾乱後、伯耆国の山名氏が出雲国に進出する中、南朝方が優位となり、赤江郷は南朝により没収され、新たに庄園として立券されたとされた。

 

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