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2019年12月15日 (日)

出雲国における摂関家領の成立

 文永八年杵築大社三月会結番帳によると、出雲国には摂関家領庄園が九ヶ所確認できるが、大規模な領域型庄園は東部能義郡に多い。近刊の佐伯徳哉氏『権門体制下の出雲と荘園支配』の中では、うち二つを鎌倉末までの成立と述べており、理解が困難である。二荘の初見史料は結番帳を除けば、応長元年(法喜庄)と建武三年(美談庄)であるが、文永八年以前の成立であることは一目瞭然である。両庄の成立時期については当ブログでも分析した結果を掲載している。また佐伯氏は文永八年の庄園の田数をそれに近い時期のものと理解しているが、公領と違って不入権を得た庄園は国衙による検注ができず、田数は庄園として立券された時期の数字である。
 出雲国内の摂関家領の成立時期について、佐伯氏は大日方氏の平安後期の出雲国司に関する研究を受けて、その下限を摂関家家司でもあった出雲守高階重仲の時期(一一世紀末)までか、としている。これは大規模な領域型庄園の成立は一二世紀初めの白河院政後期以降であり、この時期に藤原忠実により摂関家領の再編成がされたとの通説と矛盾している。福頼庄のように成立が一一世紀にまで確実に遡る庄園もあるが、その規模が約百町という結番帳にみえる規模になったのは、一二世紀前半の白河院政期後期から鳥羽院政期にかけてではないか。園山庄もその成立は一一世紀まで遡るが、大宮領をへて前斎院領となった時点で、文永八年にみえるような大規模庄園になった。
 大日方氏は高階重仲の後任となった藤原忠清以降、院近臣が出雲国知行国主となり、その関係者が国守となったとされたが、公家は複数の有力者と関係を持つことは珍しくなく、その分析は不十分である。では誰が摂関家との関係を有したかと言えば、藤原基隆・隆頼父子と藤原為隆・憲方父子である。基隆の子隆頼は嫡子忠隆、同母弟経隆の異母兄であるが、出雲守在任中の永久四年(一一一六)には藤原氏の大学別曹勧学院の学頭を務めていることが確認できる。また嫡子忠隆の娘は近衛基実の室となり、その嫡子基通を産んでいる。忠隆の子信頼は後白河院のもとで急速に台頭したが、平治の乱で没落した。為隆は夜の関白と呼ばれた顕隆の同母兄であるが、摂関家家司でもあった。白河院の娘前斎院禛子内親王に仕えていたことは前述の通りである。大規模な領域型摂関家領が成立したのはこの時期であった可能性が大きい。まさに藤原顕隆・顕頼父子により天永三年の杵築大社遷宮が行われ、基隆・隆頼父子に出雲国司は交替し、次いで為隆・憲方父子が継承した。その期間は一四年である。
 佐伯氏は島根郡法吉社が摂関家領だとしているが、法吉(法喜)庄は文永八年結番帳には「春日末社」とみえ(地頭は奈胡氏)、法吉社はこれとは別の公領(地頭は渋谷氏)である。なお、「松江市域の所領と地頭から」の記事で指摘から漏れたが、摂関家領林木庄(出雲市)は神門郡ではなく出東郡に属する庄園である。正応元年一一月二一日将軍家政所下文(小野家文書)にみえる「神門郡園林木」の「神門郡」の部分は日御崎社が入手してから書き加えられたもので、「園林木」は「園内外」が正しい読みである。本ブログで度々指摘しているように、研究論文の命はその精度である。

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