koewokiku(HPへ)

« 中世史研究への感想 | トップページ | 丹波守源季房をめぐって2 »

2019年12月24日 (火)

丹波守源季房をめぐって1

 院政期の丹波守には院近臣が補任されることが多い。播磨守、伊予守、讃岐守が有力院近臣でたらい回しにされた事は有名だが、丹波守と越後守もそれに次ぐものである.藤原基隆子忠隆、顕季子家保、藤隆時子清隆、顕隆子顕頼、通季子公通と一二一〇年代から三〇年代初めにかけて続いて補任されている。本人は鳥羽院近臣、父は白河院近臣である。後三条即位まで遡ってみても、前任の醍醐源氏高房に替わって延久四年に丹波守に補任された藤原顕綱は『蜻蛉日記』の作者を母とする道綱の孫である。父兼経は一九才で従三位、二四才で参議に補任されるまでは順風満帆であったが、翌年の五節舞姫貢進の際のトラブルから精神的病となり、その後は昇進が滞り、四四才で死亡した。顕綱は母が後三条の母禎子内親王の乳母であった関係で、後三条に近く、その子有佐は天皇の御落胤と伝えられている。翌年には高階経成の見任が確認できるが、承暦元年(一〇七七)一一月に再び顕綱の丹波守見任が確認できる。翌年六月には藤原顕季が補任されており、顕綱は二度丹波守となりながら、いずれも短期間で交替している。とはいえ、承暦三年には讃岐守の見任が確認できる。
 顕綱の娘は、兼子が堀河天皇乳母となり、妹長子も堀河天皇の典侍となり、その最期を看取った一人となった。顕綱と長子は歌人としても知られ、長子は『讃岐内時日記』の記主である。高階経成はその子経敏とともに白河院近臣で、経敏が養子としたのが信西入道である。顕季の後任は応徳三年(一〇八六)に丹波守に重任した源顕仲(二九才)である。村上源氏顕房の子で従三位神祇伯まで進むが、その娘には待賢門院堀河と上西門院兵衛がいる。寛治七年に(一〇九三)丹波守に補任された季房は顕仲の弟であるが、顕房(一〇九四年に五八才で卒)の晩年の子と思われる。寛治四年に前斎宮媞子内親王未給で叙爵しているが、一〇才前半であったのではないか。媞子内親王は白河院が寵愛した娘で、院号宣下で郁芳門院となったが、季房は寛治七年正月に郁芳門院院司別當となり、七月に丹波守に補任されている。『中右記』二月五日には三ヵ国が院分国で、能登が白河院、和泉が陽明門院、丹波が郁芳門院分とある。翌年に父が死亡したが、季房の地位には影響がなく、正月には郁芳門院御給で正五位下に叙せられている。その後、永長元年一一月(一〇九六)に高階為章と相博して加賀守に遷任しているが、それに先立つ七月に郁芳門院が病死し、白河院を歎かせている。この点をふまえると、丹波守季房の背後には郁芳門院が分国主として存在したのではないか。五味文彦氏は、当時の女院分国は一年単位で配分されたとするが、郁芳門院分国は継続したものではなかったか。なお、為章も院近臣で、八月二四日に長子仲章が一一才で天皇の蔵人に補任された事について、『中右記』の記主宗忠は、顕季の二男家保が一三才で補任され(寛治七年正月に郁芳門院蔵人となり、七月に叙爵)たのも前例がなく希有な例であったが、一一才とはなおさらだと述べている。
 季房は承徳二年四月の斎院令子内親王の御禊では前駈をしている、右兵衛佐としての職務に伴うものだが、令子内親王は郁芳門院と堀河天皇の同母妹である。康和二年(一一〇〇)一一月には五節舞姫を貢進し、翌年一一月には堀河天皇の昇殿を許されている。

 

« 中世史研究への感想 | トップページ | 丹波守源季房をめぐって2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 中世史研究への感想 | トップページ | 丹波守源季房をめぐって2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ