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2019年12月28日 (土)

藤原有定・有隆父子2

 『中右記』嘉保二年正月五日条には「今年叙位、無一院并郁芳門院分」とあり、この年は白河・郁芳門院分国での国守の交替がなかったことがわかるが、具体的にどこが分国であったかは不明である。翌永長元年(一〇九六)には若狭国が白河院分国で藤原為房の子顕隆が国守に補任され、郁芳門院分国の淡路守には藤原家光が補任されている。家光は嘉承三年正月には白河院分国伯耆の国守に起用されている。顕隆は二五才で年少ではないが、『後二条師通記』には、既に蔵人から源有宗が陸奥守に補任されされており、その上に顕隆が補任されたことに疑問が述べられている。「院両分不可任由、蜜々所申也、院分一人可補者也、已以両方補任已畢」との記載からすると、若狭とともに陸奥国も白河院の分国と解釈できる。その意味で顕隆の補任は年少ではないが異例であったとも言える。陽明門院分が消滅し、代わりに白河院分が二ヵ国(あるいはそれ以上か、陽明門院は白河院の祖母であるが皇族で、後三条の意思を無視して子堀河を天皇とした白河に厳しい目を向けていた)となったのであろうか。『同記』康和元年(一〇九八)一月一七日条には「公卿勅使・神人禄事、諸国等多院分候、難催歟」とあり、院分国が増加して禄の確保が困難となっている事が述べられている。四月二八日条には、陸奥守源有宗が貢金を申した事が記されている。康和五年(一一〇三)には筑前国が(『殿暦』)、翌長治元年(一一〇四)には越後国が(『為房卿記』)白河院分国であったことがわかる。
 堀河天皇が嘉承二年に死亡し、翌三年正月の除目から白河院が実権を握ったとされるが、同年には伯耆国が白河院、信濃国が堀河院の分国であった。堀河は死亡しているが形の上では継続されている。翌二年には淡路国(『中右記』)が院分国であった事が確認できる。さらに永久元年(一一一三)には「山陽道八ケ国院分」(『長秋記』)とみえ、山陽道八ヶ国すべてが院分国であったと思われる。ただ、一年限りか、任期中ずっと院分国であったかは不明である。一般的には後期白河政期は後者であろうとされている。

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