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2019年12月24日 (火)

丹波守源季房をめぐって2

 長治元年(一一〇四)正月に季房は丹波守に遷任し、越後守であった院近臣藤原敦兼が加賀守に遷任された。前年末に高階為章が死亡したことに伴うものであったが、季房は堀河天皇の殿上人として加賀守を二期八年務めたことになる。嘉承元年(一一〇六)九月には祇園社神人が蜂起して丹波守季房を訴えているが、強訴した先は丹波国を沙汰する内大臣源雅実であった。季房の兄で当時四六才、季房の推定年齢は二〇代後半である。丹波国は雅実の知行国であった。翌年正月に季房は堀河天皇行幸に伴う勧賞で正四位下に乗されたが、同年七月に堀河天皇が死亡した。その際に季房が入棺所役を務めたことは遷任功に認定され、一二月には丹波守を重任したが、翌天仁元年一〇月一四日には丹波守は藤原敦宗に交替し、季房はその後は散位のまま生涯を終えたとみられる(没年は不明)。管見では天治二年九月の斎宮守子内親王の群行に従う人々の中に四位季房がみえるのが終見史料である。四〇代半ばであったが、守子内親王は白河院の異母弟輔仁親王の娘である。同母兄実仁は後三条の後継者に指名され、異母兄白河はその成長までの中継ぎであったが、応徳二年に一五才で早世した。後三条は二才下の輔仁を実仁の後継者としたが、白河天皇は応徳三年に子堀河に譲位してしまい、永久元年には輔仁即位の陰謀ありとして、関係者が処分され、輔仁即位の可能性は消滅した。
 丹波守が季房から藤原敦宗に交替したのは、斎院御禊の際に行事を務める季房が服仮であったためであり、『中右記』の記主藤原宗忠は、他国との相博であるべきで、解官としてはならないと述べている。後任となった敦宗は鹿子木庄事書で知られる大宰大弐実政卿の子で、白河天皇への昇殿を許されていたが、寛治二年(一〇八八)の父の失脚・流罪に伴い左少弁を解官された。一〇年後にようやく式部少輔に補任され官界に復帰したがすでに五七才であった。その後、大学頭、鳥羽天皇の東宮学士を務め、嘉承二年の鳥羽の即位に伴い正四位下に叙せられ、翌年に季房の後任とて丹波守に補任された。すでに六七才であり、三年後に七〇才で死亡した。その後任が藤原基隆の嫡子で一〇才であった忠隆であった。
 おそらく季房に関心を持つ人はなく、当方も偶然調べてみたが、当初白河院に登用され、寵愛する郁芳門院の枠で一〇才前後で叙爵し、次いで丹波守に補任された。女院の没後は同母弟堀河天皇との関係で加賀守補任と丹波守の再任となったが、堀河の死後、季房は白河院の近臣になれなかったことで、丹波守退任後は職を得ることはなかった。藤原基隆の同母弟で出雲守に補任された家保は、母が堀河天皇乳母であったために、季房と同様に堀河天皇の入棺役も務めたが、兄基隆が白河院近臣となったのに対して、大江匡房の養子となっていた家保は、白河院近臣にはなれず、出雲守退任後は永久二年正月に治国により従四位上に叙せられたのみで、新たな職を得る事はなかった。家保との関係で季房に関心を持ち、調べてみた次第である。なお、季房は顕房の子であるが、尊卑分脈では顕房の子雅兼の子とされてしまった。顕房の晩年の子であったこととともに、出世が十分ではなかったことも、情報の混乱を生んだ原因であろう。その子忠房は「従五上」、孫家房は「従五下、加賀守」と記されているが、関係史料を検索しても管見の限り確認できない。

 

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