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2019年12月

2019年12月29日 (日)

出雲国における八幡宮別宮の勧請2

 天永二年(一一一一)六月二五日に平浜別宮の遷宮日時を七月二八日とすることが定められている。延久の荘園整理令の四二年後であり、勧請・造営に伴うものであったと考えられる。当時の出雲守は嘉承三年(一一〇八)正月補任の藤原顕頼で、父顕隆が知行国主であった。翌天永三年に遷宮が行われた杵築大社造営の開始は天仁二年(一一〇九)年であった。これに先行、ないし平行する形で、平浜別宮の勧請が行われ、天永二年の遷宮となったと思われる。この時点では出雲国内における庄園の比率は低く、別宮勧請と大社造営との間の矛盾は大きくなかった。
 第一歩となった平浜別宮勧請に続いて、他の別宮が勧請された時期を考える材料は、保元元年時に出雲国とともに八ヶ所の別宮があった但馬国との共通性である。すなわち、大社遷宮が政府の報告を含めて終了したのを受けて、永久二年末に顕頼に代わって三河守から遷任してきた藤原隆頼は保安二年(一一二一)末まで七年間出雲守であった。父で院近臣である基隆が知行国主として実権を握っていたと思われる。同時期基隆は、院近臣有力者の指定席である播磨守であったが、その一方で、元永元年(一一一八)には嫡子で隆頼の異母弟である忠隆を但馬守として、但馬国知行国主の地位にもあった。出雲国で石清水八幡宮の第二番目以降の別宮が知行国主基隆の時代に勧請されるようになった可能性が大きい。在庁官人も自らが郷司である公領に隣接する場所に別宮を勧請することで、基隆との関係を強めることができた。ただし、安田別宮・横田別宮・赤穴別宮は大規模領域庄園であり、その成立はやや遅れると考えるべきである。
 出雲国はその後も、藤原為隆の子憲方、基隆の子経隆(忠隆の同母弟)、待賢門院庁と鳥羽院庁のトップであった源能俊の子から藤原基隆の養子となった光隆(後に源姓に戻る)が国守となり、中央との太いパイプを維持した(ただし、基隆は一一三二年に死亡しており、出雲国は女院分国であった)。そうした中で、大規模な御願寺領や摂関家領が次々と成立した。一方で、杵築大社造営が課題となる中、保延四年末には院近臣藤原清隆の子光隆が安芸守から遷任してきた。光隆は一方で庄園の寄進を認めつつ、大社造営が本格化すると、軸足を庄園成立から造営の実現に移し、短期間で遷宮にこぎつけ、久安二年末には再任の藤原経隆と相博して但馬守に遷任している。
 以上、出雲国における石清水八幡宮の別宮勧請と庄園成立の第一段階は院近臣藤原基隆が出雲国知行国主であった時期に行われた可能性が高いことを述べた。
(付記)『上之郷神社誌』には保延年間(四年ヵ)と文治年間(五年ヵ)の大田別宮の棟札が掲載されている。一部判読が困難なヶ所もあるが、当時のものとしては不自然な内容が含まれている。ただし、大田別宮が塩冶郷内のこの地にあった点は事実あろう。保延四年とすると、国守源光隆の時代である。

 

出雲国における八幡宮別宮の勧請1

 従来から八所八幡という言葉が使われ、出雲国内の石清水八幡宮の別宮八ヶ所の勧請と庄園としての成立時期は、延久の荘園整理令と保元新制(荘園整理を含む)の間であることが言われているが、これはただ史料の内容を確認しただけで、問題はその先の分析で、それを欠いた論文は研究としての要件を欠いたものである。これまで、院御願寺領と摂関家領の成立を通して、出雲国における領域的庄園の成立は白河院政後期とそれに続く鳥羽院政期であることを述べてきた。この点を八幡宮領について検証したい。
 康治二年の官宣旨と太政官符の関係については前述の通りであるが、知行国主・国守と在庁官人の利害は共通するものと相反する両面を見なければならない。八幡宮領は、出雲国衙の在庁官人の筆頭である勝部宿祢領に隣接していることもすでに述べた。その前提として所在地の確定が不可欠であったが、従来、飯石郡北部に比定されていた大田別宮が、塩冶郷内上郷の地に所在したことも明らかにした。
 保元元年に石清水八幡宮の別宮(庄園)が多いのは、畿内を除けば、但馬国と出雲国である。また鳥羽院政期に能登国で成立した庄園は一ヶ所を除き、持明院通重が国司であった時期(一一四〇~四七)に成立したものであることを明らかにした。通重の同母弟で後任の能登守となる基家が久安四年(一一四八)正月に一七才で能登守に補任されていることと、通重の長子一条能保の誕生が久安三年であることを勘案すると、通重は能登守補任時に基家より年少であった可能性が高い。何を言いたいかといえば、能登国の支配を行ったのは待賢門院庁の中心で、久安四年一〇月に五八才で死亡した父通基であったことである。通基の父基頼が能登守時代に北野八幡宮に庄園寄進を行っていることから、出雲国島根郡内北野末社は、出雲国が待賢門院分国であった時期(一一三〇~三八)に通基により寄進・成立したとの説も示した。この当時の通基は因幡守で、次いで後に通基の娘を室とした西園寺公通と相博して丹波守に遷任している。

2019年12月28日 (土)

藤原有定・有隆父子6

 以上、名前を知る程度であった藤原有定・有隆父子と益田氏ならびに、長野庄・益田庄との関係を述べた。有隆の子達は父と同様源有仁に仕えていたが、一方では崇德院の側近日野資憲の母は有隆の姉妹であった。長野庄は崇德院へ、益田庄はその中宮であった皇嘉門院に寄進されたが、有定-有隆とその子達は、待賢門院・崇德院・兵衛佐局と摂関家出身の皇嘉門院の両方との関係を有していた。これが、益田氏系図で祖国兼が日野有隆に結びつけられた背景であった。なお、兵衛佐局が崇德天皇の寵愛を受け、保延六年に重仁親王を産むと、中宮聖子の父忠通と崇德の関係が悪化し対立に転じるとの説があるが、仁平二年(一一五二)には忠通の長子覚忠が豊前国伝法寺庄を、同四年には中宮聖子の中宮大夫であった藤原忠教の子阿闍梨教智が摂津国難波庄を崇德の御願寺成勝寺に寄進しており、忠通-聖子との関係が悪化したとの説は誤りである。関係が変化するのは、崇德と父鳥羽との関係と同様、久寿二年(一一五五)七月の近衛天皇の死以降である。長野庄の第二次寄進と益田庄の寄進も関係が変化するまでに行われたであろう。
 最初に述べた院分国については、関白師通の死後増加し、堀河天皇の死後、継続するようになったと思われる。女院分国が継続するようになるのは待賢門院の御願寺円勝寺の造営の頃からであろう。 

藤原有定・有隆父子5

最初に有隆の父有定について述べたが、有定は日野氏の一員として摂関家(忠実)家司である一方で、陽明門院分国である淡路守に起用され、後三条の後継者の本命とされた実仁親王に仕えた。次いでその子有隆は実仁の同母弟輔仁親王の子有仁親王に仕えている。一方、崇德院の子重仁を産んだ兵衛佐局は源行宗の養女となっていたが、行宗の娘が輔仁親王との間に産んだのが有仁であった関係で、行宗は有隆と共に有仁に仕えていた。
 ブログでは第二次の長野立庄は崇德院庁に寄進・立券されたことを述べたが、周防国玉祖社は、天治二年五月頃、白河院に寄進され下文を得たが、保延三年九月に待賢門院御願寺法金剛院に第二次の寄進がなされている。崇德院は待賢門院の後継者であるが、その一方では源行宗の養女として女房となっていた兵衛佐局との間に重仁親王をなしている。行宗は三条天皇の子小一条院の孫で、実仁親王と輔仁親王に仕えていたため、実仁の死と輔仁の失脚により昇進は停滞したが、保延五年正月に、昇殿を許されていた待賢門院御給で従三位に叙せられ公卿となった。行宗の娘と輔仁との間に産まれた怡子女王が賀茂斎院であった天養元年には行宗の子雅重(その室は平忠盛と白河院近臣藤原為忠の娘)が斎院庁官を務めているが、仁平二年には斎院長官の労によって正五位下に叙され、保元二年(一一五七)に斎院長官を息子・基能に譲る事が認められた。源有仁の室が待賢門院の同母妹であった関係で、同じ同母妹公子が産んだ経実晩年(四九才)の子懿子は、有仁の養女として待賢門院の第四皇子雅仁(後白河)の妃となった。
大治三年三月に待賢門院御願寺円勝寺供養が行われ、勧賞として仁和寺法親王(白河院の第五皇子覚法法親王)が円勝寺検校、大僧正行尊が別當、兵衛局佐の実父信縁法橋が執行・上座に補任されている。信縁は法印に叙された四年後の保延四年(一一三八)正月に五五才で死亡した。兵衛佐局の母は不明であるが、源行宗の室は信縁の従姉妹にあたる女性で、行宗の同母兄が前述の大僧正行尊であった。行宗は保延五年には待賢門院の御給で従三位に叙せられて七六歳で公卿に列しているが、その背景には兵衛佐局(行宗が二五才で補任された右兵衛佐にちなむ)が崇德天皇の寵愛を得ていたことがあろう。翌年九月には重仁親王が産まれている。


 

藤原有定・有隆父子4

 益田氏系図には登場しないが、日野氏系図によると、有隆の姉妹(有定の娘)が日野氏惣領となった実光の室となり、その間に産まれたのが、本ブログで何度も述べた日野資憲である。これに対して高階重仲の娘を母とする異母弟が資長である。してみると、国兼を資憲の母の弟である有隆の子とするのはずれているが、明解な回答は保留せざるを得ない。一方、資憲は崇德院の側近で、本ブログで長野庄の第二次寄進は崇德院庁に対して行われたとの説を提示した。また、「諸氏家牒本石見益田家系図(柿本朝臣)」に基づき、国兼は宗季の庶子で、嫡子は兄弟国季・国頼・国宗の中で、父の季の字を付ける国宗であったとの説も示した。宗季・国季・宗兼の名からは源国保の前任の石見守であった藤原宗長との関係がうかがわれる。久留島氏が示された長野庄関係系図によると、長野庄立券時の豊田郷(国俊)、角井郷(国高)、吉田郷(国盛)、安富郷(国兼)の下司の名にはいずれも「国」の字がみえ、得屋郷の下司は国兼の養子宗兼であった。 
 資憲の室の父が叔父資光で、長承一年(一一三三)二月に五〇才で死亡するまで、待賢門院庁の中心人物であった。大治四年(一一二九)八月に女院の侍である卜部兼仲が石見守に起用され、翌年一〇月には九才の源光隆(女院庁の別當の筆頭源能俊の子で藤原基隆の養子となる)が出雲守に補任されている。両者は計歴(兼仲)と年齢(光隆)から、女院分国でなければ国守に補任されるはずのない人物である。女院分国となった石見国の支配に日野資光が関わったことは確実である。石見国の有力在庁官人でもあった長野庄と益田庄の関係者と資光との間につながりがあったであろう。益田氏系図で初代とされる国兼が資憲の母の兄弟である日野有隆の子であると系図に記したのは以上のような背景があったと思われる。本ブログでは長野庄は、西田友広氏が説くように、石見守卜部兼仲との関係で立庄されたが、それにとどまらず、藤原忠実の娘高陽院分国であった時期に、領域を拡大した第二次の立庄が行われたことを述べた。長野庄関係者に当時の国守源国保とその父雅国との関係をうかがわせる「国」をその名前に付ける人物が多いのはそのためである。益田の祖国兼も、長野庄立券に参加し、次いで、藤原忠通の家司でもあった石見守源季兼のもとで、藤原忠通の娘である崇德天皇中宮聖子(皇嘉門院)に益田庄が寄進・立券された。

藤原有定・有隆父子3

 話を有定に戻すと、寛治一年(一〇八七)七月には内大臣藤原師通の家司として「淡路守有定」がみえる(『為房卿記』)。日野氏からは摂関家司となっている例が多い。嘉保一年(一〇九四)には「治国」により従五位上に叙されており、淡路守を退任していた(後任藤原行実を経て同じく摂関家家司であった藤原為隆が淡路守見任)。嘉保三年八月には寵愛していた郁芳門院が死亡し、康和元年(一〇九九)六月には堀河天皇と結んで政治を主導していた師通が死亡している。こうした中で白河院を制止する力は弱くなった。「益田氏系図」には有定が寛治八年二月二日に五三才で死亡したと記している(これそのものは『尊卑分脈』と同じ)が、『中右記』嘉保元年三月一八日条には早朝に有定の兄弟である安芸守有俊から書状が届き、所労により日野に参籠していた有定が夜半に死亡したことを知り、涙を流したことが記されている。有定・有俊の姉妹が記主宗忠の母であった。そこには有定について、式部大輔実綱の第四子で、故右大臣藤原俊家の支援で縫殿助となり(姉妹が俊家の嫡子宗俊の室であった)、後三条が白河天皇の皇太弟とした実仁親王の春宮少進となったことが記されている。
  ところが、実仁が応徳二年(一〇八五)一一月に早世すると白河は翌年に子堀河に皇位を譲り、実仁の同母弟輔仁を冷遇した。これにより有定は職を失ったが、そこに手を差し伸べたのが実仁の祖母陽明門院であり、淡路国が自らの分国であった年に国守に起用したのである。有定は五二才で死亡したと記されており、寛治一年には四五才であった。任中に公文を済ませたことで、従五位上に叙せられた。
  有定の子有隆は康和一年(一〇九八)と永久三年(一一一五)にいずれも文章生としてみえ、後者では輔仁親王の一宮有仁が元服して白河院のもとを訪れた際に、源行宗とともに前駈を務めている。行宗と共に、有仁に仕えていたのであろうが、出世という面では不利な状況にあった。なお、行宗の一五才年長の同母兄季宗は皇太弟実仁の春宮権大夫であった。春宮大夫は閑院流藤原公実の父実季であった。
  次いで保安三年(一一二二)正月には有隆が従六位上相当の民部少丞から正六位下相当の大丞に昇進している。それ以降の有隆に関する史料は確認できないが、尊卑分脈には従五位下相当の式部少輔と記されている。有隆の祖父実綱は式部大輔兼文章博士であり、保安三年以降に式部大丞から式部少輔に昇進したのだろう。分脈には有隆の子である有義と季隆には花園左府(源姓を賜った有仁が左大臣となり花園離宮を与えられた)勾当と記されている。益田氏系図一本宗季の子とされる国兼とその父ともされる有隆の活動時期に矛盾はない。分脈には国兼を有定の子としているが、そうするとその活動時期の下限は一二世紀の第二四半期半ば頃となるが、益田氏の祖である国兼の活動時期の下限は第三四半期であり、有定ではなく有隆の子の世代に相当する。

 

藤原有定・有隆父子2

 『中右記』嘉保二年正月五日条には「今年叙位、無一院并郁芳門院分」とあり、この年は白河・郁芳門院分国での国守の交替がなかったことがわかるが、具体的にどこが分国であったかは不明である。翌永長元年(一〇九六)には若狭国が白河院分国で藤原為房の子顕隆が国守に補任され、郁芳門院分国の淡路守には藤原家光が補任されている。家光は嘉承三年正月には白河院分国伯耆の国守に起用されている。顕隆は二五才で年少ではないが、『後二条師通記』には、既に蔵人から源有宗が陸奥守に補任されされており、その上に顕隆が補任されたことに疑問が述べられている。「院両分不可任由、蜜々所申也、院分一人可補者也、已以両方補任已畢」との記載からすると、若狭とともに陸奥国も白河院の分国と解釈できる。その意味で顕隆の補任は年少ではないが異例であったとも言える。陽明門院分が消滅し、代わりに白河院分が二ヵ国(あるいはそれ以上か、陽明門院は白河院の祖母であるが皇族で、後三条の意思を無視して子堀河を天皇とした白河に厳しい目を向けていた)となったのであろうか。『同記』康和元年(一〇九八)一月一七日条には「公卿勅使・神人禄事、諸国等多院分候、難催歟」とあり、院分国が増加して禄の確保が困難となっている事が述べられている。四月二八日条には、陸奥守源有宗が貢金を申した事が記されている。康和五年(一一〇三)には筑前国が(『殿暦』)、翌長治元年(一一〇四)には越後国が(『為房卿記』)白河院分国であったことがわかる。
 堀河天皇が嘉承二年に死亡し、翌三年正月の除目から白河院が実権を握ったとされるが、同年には伯耆国が白河院、信濃国が堀河院の分国であった。堀河は死亡しているが形の上では継続されている。翌二年には淡路国(『中右記』)が院分国であった事が確認できる。さらに永久元年(一一一三)には「山陽道八ケ国院分」(『長秋記』)とみえ、山陽道八ヶ国すべてが院分国であったと思われる。ただ、一年限りか、任期中ずっと院分国であったかは不明である。一般的には後期白河政期は後者であろうとされている。

藤原有定・有隆父子1

 有定(一〇四三~九四)は日野実綱の子であるが、益田氏系図では祖国兼の父は有隆(有定の子)とされている。益田庄の立庄(寄進・立券)の中心となった源季兼の娘が日野氏惣領資長の室となった関係で、季兼が立庄した能登国の大庄園若山庄(田数五百町)は日野家領となっている。その流れから益田氏が自らの先祖を日野氏に仮託したとの説を示したことがある。益田氏系図では有定は源基成の子で当初は有房であったとの記載があるが、尊卑分脈では母が有信と同じとしながら基(道)成の子という矛盾した記述をしている。母が源道成の娘とするのが正しい。道成については「一一世紀の隠岐国司」で述べた。
 今回、有定に注目したのは、女院分国を考える中で、有定が後三条天皇の母禎子内親王(陽明門院)の分国淡路の国守に起用されていたことであった。五味文彦氏によると、女院分国は当初は一年を単位に認められたものであったが、後には摂関家や院近臣の知行国と同様、国司の任期と連動し、時には重任して二期八年続くようになった、前者のように一年単位の時点では、税の大半を与えられた可能性があるが、後者の時点では、知行国主と同様、国司の補任権ブラスアルファの権限となり、それがゆえに、院分国の数は拡大した。
 問題は前者から後者へどの時点で変わったかであるが、何も考えなければ、堀河天皇が死亡し、白河院が名実ともに治天の君となった時点が想定できる。ただし、実際の史料をみると、それ以前に変わっていたようである。『中右記』寛治七年(一〇九三)二月五日条には、「院分三个国、【能登一院・和泉陽明門院(禎子内親王)・丹波郁芳門院(媞子内親王)」とあり、能登が白河院、和泉が陽明門院、丹波が郁芳門院の分国であった。翌嘉保一年一二月一七日条には「藤仲実任参川国、是故陽明門院当年院分也」とあり、遠江国が陽明門院分国であった。女院が同年一月六日に死亡しているため「故」とある。一年を単位とし、一旦指定されると本人が死亡した場合でも継続されたことがわかる。とはいえ、遠江国からの税収がどう扱われたかは不明である。寛治五年には丹後国が女院分国で、待賢門院の従兄弟(保実子)である実信が国守に補任されている(柳原家記録)。同年の白河院分国は因幡国で、近臣藤原顕季の子長実が国守に補任されている.実信は一四才、長実は一七才という「年少受領」であった。実務はその父保実と顕季が行ったと考えられる。

 

2019年12月24日 (火)

丹波守源季房をめぐって2

 長治元年(一一〇四)正月に季房は丹波守に遷任し、越後守であった院近臣藤原敦兼が加賀守に遷任された。前年末に高階為章が死亡したことに伴うものであったが、季房は堀河天皇の殿上人として加賀守を二期八年務めたことになる。嘉承元年(一一〇六)九月には祇園社神人が蜂起して丹波守季房を訴えているが、強訴した先は丹波国を沙汰する内大臣源雅実であった。季房の兄で当時四六才、季房の推定年齢は二〇代後半である。丹波国は雅実の知行国であった。翌年正月に季房は堀河天皇行幸に伴う勧賞で正四位下に乗されたが、同年七月に堀河天皇が死亡した。その際に季房が入棺所役を務めたことは遷任功に認定され、一二月には丹波守を重任したが、翌天仁元年一〇月一四日には丹波守は藤原敦宗に交替し、季房はその後は散位のまま生涯を終えたとみられる(没年は不明)。管見では天治二年九月の斎宮守子内親王の群行に従う人々の中に四位季房がみえるのが終見史料である。四〇代半ばであったが、守子内親王は白河院の異母弟輔仁親王の娘である。同母兄実仁は後三条の後継者に指名され、異母兄白河はその成長までの中継ぎであったが、応徳二年に一五才で早世した。後三条は二才下の輔仁を実仁の後継者としたが、白河天皇は応徳三年に子堀河に譲位してしまい、永久元年には輔仁即位の陰謀ありとして、関係者が処分され、輔仁即位の可能性は消滅した。
 丹波守が季房から藤原敦宗に交替したのは、斎院御禊の際に行事を務める季房が服仮であったためであり、『中右記』の記主藤原宗忠は、他国との相博であるべきで、解官としてはならないと述べている。後任となった敦宗は鹿子木庄事書で知られる大宰大弐実政卿の子で、白河天皇への昇殿を許されていたが、寛治二年(一〇八八)の父の失脚・流罪に伴い左少弁を解官された。一〇年後にようやく式部少輔に補任され官界に復帰したがすでに五七才であった。その後、大学頭、鳥羽天皇の東宮学士を務め、嘉承二年の鳥羽の即位に伴い正四位下に叙せられ、翌年に季房の後任とて丹波守に補任された。すでに六七才であり、三年後に七〇才で死亡した。その後任が藤原基隆の嫡子で一〇才であった忠隆であった。
 おそらく季房に関心を持つ人はなく、当方も偶然調べてみたが、当初白河院に登用され、寵愛する郁芳門院の枠で一〇才前後で叙爵し、次いで丹波守に補任された。女院の没後は同母弟堀河天皇との関係で加賀守補任と丹波守の再任となったが、堀河の死後、季房は白河院の近臣になれなかったことで、丹波守退任後は職を得ることはなかった。藤原基隆の同母弟で出雲守に補任された家保は、母が堀河天皇乳母であったために、季房と同様に堀河天皇の入棺役も務めたが、兄基隆が白河院近臣となったのに対して、大江匡房の養子となっていた家保は、白河院近臣にはなれず、出雲守退任後は永久二年正月に治国により従四位上に叙せられたのみで、新たな職を得る事はなかった。家保との関係で季房に関心を持ち、調べてみた次第である。なお、季房は顕房の子であるが、尊卑分脈では顕房の子雅兼の子とされてしまった。顕房の晩年の子であったこととともに、出世が十分ではなかったことも、情報の混乱を生んだ原因であろう。その子忠房は「従五上」、孫家房は「従五下、加賀守」と記されているが、関係史料を検索しても管見の限り確認できない。

 

丹波守源季房をめぐって1

 院政期の丹波守には院近臣が補任されることが多い。播磨守、伊予守、讃岐守が有力院近臣でたらい回しにされた事は有名だが、丹波守と越後守もそれに次ぐものである.藤原基隆子忠隆、顕季子家保、藤隆時子清隆、顕隆子顕頼、通季子公通と一二一〇年代から三〇年代初めにかけて続いて補任されている。本人は鳥羽院近臣、父は白河院近臣である。後三条即位まで遡ってみても、前任の醍醐源氏高房に替わって延久四年に丹波守に補任された藤原顕綱は『蜻蛉日記』の作者を母とする道綱の孫である。父兼経は一九才で従三位、二四才で参議に補任されるまでは順風満帆であったが、翌年の五節舞姫貢進の際のトラブルから精神的病となり、その後は昇進が滞り、四四才で死亡した。顕綱は母が後三条の母禎子内親王の乳母であった関係で、後三条に近く、その子有佐は天皇の御落胤と伝えられている。翌年には高階経成の見任が確認できるが、承暦元年(一〇七七)一一月に再び顕綱の丹波守見任が確認できる。翌年六月には藤原顕季が補任されており、顕綱は二度丹波守となりながら、いずれも短期間で交替している。とはいえ、承暦三年には讃岐守の見任が確認できる。
 顕綱の娘は、兼子が堀河天皇乳母となり、妹長子も堀河天皇の典侍となり、その最期を看取った一人となった。顕綱と長子は歌人としても知られ、長子は『讃岐内時日記』の記主である。高階経成はその子経敏とともに白河院近臣で、経敏が養子としたのが信西入道である。顕季の後任は応徳三年(一〇八六)に丹波守に重任した源顕仲(二九才)である。村上源氏顕房の子で従三位神祇伯まで進むが、その娘には待賢門院堀河と上西門院兵衛がいる。寛治七年に(一〇九三)丹波守に補任された季房は顕仲の弟であるが、顕房(一〇九四年に五八才で卒)の晩年の子と思われる。寛治四年に前斎宮媞子内親王未給で叙爵しているが、一〇才前半であったのではないか。媞子内親王は白河院が寵愛した娘で、院号宣下で郁芳門院となったが、季房は寛治七年正月に郁芳門院院司別當となり、七月に丹波守に補任されている。『中右記』二月五日には三ヵ国が院分国で、能登が白河院、和泉が陽明門院、丹波が郁芳門院分とある。翌年に父が死亡したが、季房の地位には影響がなく、正月には郁芳門院御給で正五位下に叙せられている。その後、永長元年一一月(一〇九六)に高階為章と相博して加賀守に遷任しているが、それに先立つ七月に郁芳門院が病死し、白河院を歎かせている。この点をふまえると、丹波守季房の背後には郁芳門院が分国主として存在したのではないか。五味文彦氏は、当時の女院分国は一年単位で配分されたとするが、郁芳門院分国は継続したものではなかったか。なお、為章も院近臣で、八月二四日に長子仲章が一一才で天皇の蔵人に補任された事について、『中右記』の記主宗忠は、顕季の二男家保が一三才で補任され(寛治七年正月に郁芳門院蔵人となり、七月に叙爵)たのも前例がなく希有な例であったが、一一才とはなおさらだと述べている。
 季房は承徳二年四月の斎院令子内親王の御禊では前駈をしている、右兵衛佐としての職務に伴うものだが、令子内親王は郁芳門院と堀河天皇の同母妹である。康和二年(一一〇〇)一一月には五節舞姫を貢進し、翌年一一月には堀河天皇の昇殿を許されている。

 

2019年12月22日 (日)

中世史研究への感想

 ここ二、三年はそれまで知らなかった分野の関係史料や論文を読むようになった。自ら歴史研究に利用できる時間が増えたことがその背景にある。新たな基盤となる知識・データを得ることで、一つの史料を分析する際に、従来は気づかなかった視点から調べ、考えるようになった。現在の自分は特定の時期やテーマではなく、関係史料からどこまで情報を引き出すことができるかを考えている。それがブログの「資料の声を聴く」という題名にも現れている。最近出逢った各専門分野の研究は一見精緻であるが、必ずしも十分な精度が担保されているとは限らないし、論争についても、簡単に白黒がつけられない問題に強引に結論を出そうとしている傾向がある。結論を出す事で次の段階へ進むこともあるが、一方で見えなくなるものもある。また研究の間口(守備範囲)の狭さを感じ、時代をとらえる研究としては違和感を覚えることがある。
 以前から研究論文中の「‥‥権力」という用語に違和感を覚えていた。現在の日本の政権(内閣)についても今後その用語を使い分析されることがあるかもしれないが、トップとその周辺にうごめく人々が明確な意思と明晰な頭脳をもって行動しているとは思えない。トップが変われば状況は大きく変わるであろうが、それは「‥‥権力」という用語で表現できるようなものではない。
 歴史上の人物で、最も厳しい評価にさらされている人物といえば、後白河天皇(院)ではないか。その背景に、近臣信西入道による評価があり、本来、一院となることを前提とした経験を積んでいなかったことが指摘される。一方で院政を開始したとされる白河院も父後三条天皇が摂関家から皇位継承から除外されようとされたため、急に脚光をあびた人物である。天皇親政を開始した父が即位後五年で死亡した時点で二一才であった。後三条の長子であったが、親王宣下は父が即位した一六才時であり、父からの譲位により二〇才で即位はしたが、本命の後継者である異母弟実仁親王即位までのつなぎであった。実仁の母は道長との対立により皇太子を辞退した敦明親王(小一条院)の子で臣下となった源基平の娘基子で、摂関家を外戚としなかった。これに対して白河の母は閑院流藤原氏公成の娘で、道長の四男能信の養女であったが、実仁は後三条の即位後の誕生で、後三条の譲位の時点では三才でしかなかった。白河の母茂子については生年が不詳であるが、皇太弟で一三才となった後三条への副臥として入内し、七年後に白河を産み、さらにその九年後に死亡しているが、後三条との間に一男四女をなしている。元服した後白河に入内し、二条天皇を産んだ源懿子は母待賢門院の同母姉公子の娘(後白河の従姉妹)であった。同じく従姉妹である藤原成子は待賢門院の異母弟季成の娘で、懿子が二条の出産直後に死亡したため、後白河の寵愛を受けたが、後白河との間に産んだ二男四女は末子休子内親王を除き後白河即位前の誕生で、子以仁王も皇位継承者の候補にはならなかった。成子は高倉天皇を産んだ平滋子と異なり女官から女御となることもなかった。
 トップではないが、藤原頼長はその日記『台記』を通じてその人物像を知ることができることもあってその問題点を指摘する意見も枚挙にいとまがない。以前のものでは橋本義彦氏(四年前に九一才で死亡)による評伝(人物叢書)とともに横井清氏(今年四月に八四才で死亡された事を知る)の『中世を生きる人々』が印象深かった。近年では元木泰彦氏の評価が知られているが、頼長の評価は未だ定まってはいないのではないか。信頼と比較される藤原信西については、研究論文はあっても一冊の評伝となる著書は未だない。
 とりとめなく述べたが、他者の研究論文は参考になり、そこから刺激を受ける一方で、一部の秀作を除き、不満を感じることも多い。秀作が増えることを期待したいが、実績ある研究者は高齢化し、後継者は必ずしも育っておらず、全体の層は薄くなっている気がしてならない。

2019年12月19日 (木)

上来島村杉戸金屋子神社棟札3

 長谷川氏は棟札の「鑪鞴鍛煉繁昌悪魔退散」部分と鑪鍛冶の「銀一封」に疑問を呈して、これを偽作されたものと評価された。ただし、従来の通説を特に検証されてはいない。「あたり前田のクラッカー」ということであろうか。通説によれば鞴は近世以降の技術であり、天文二〇年時点の銀の流通はありえないと。「悪魔退散」というのも棟札にふさわしくないと思う人もあろうが、同神社の文禄二年の棟札にもあり、また、天正一一年の生馬村薦津天若宮神社の棟札にもみえ、これは問題にはならない。銀の流通については、論者の一人から寄贈を受けた『戦国・織豊期の西国社会』(二〇一二年)所収の川戸貴史氏「銀貨普及期京都における通貨使用」をみると、従来の検討に『鹿苑日録』の売買記事の検討結果を踏まえて。京都における銀の使用が他種(銭、金)を凌駕するのは一五九〇年代半ば以降としている。
 京都に対して、上来島神社が所在した出雲国西南部飯石郡はどうかであるが、飯石郡は石見銀山のある石見国西部とは境を接している。飯石郡須佐郷は、文永八年には得宗北条時宗が地頭であり、幕府滅亡後は後醍醐により没収されたのは確実であるが、後醍醐に叛旗を翻して室町幕府を開いた足利尊氏が建武四年には須佐郷地頭職を石清水八幡宮に寄進している。貞和三年には須佐郷が杵築大社三月会の頭役を負担する順番となったが、同じ宗教勢力であることを理由に免除を求めている。その後しばらく八幡宮関係史料はないが、慶長一一年から一七年にかけての石清水八幡宮領出雲須佐公用算用帳が残されている。現時点で内容を確認したのは、その写が筑波大学図書館所蔵石清水八幡宮文書に含まれる慶長一二年(HPに画像が公開)と一五年のもの(史料纂集古文書編三〇『石清水八幡宮文書外』)であるが、年貢が銀で代納されている。上来島村棟札とは五六年の差があるが、棟札は石見銀山が発見された大永七年(一五二七)の二四年後である。注目したいのは、棟札の翌年の天文二一年一〇月一〇日には、杵築の有力商人坪内氏が尼子氏から備後国人への使者を務めた功により、石見銀山屋敷五ヶ所の安堵を受けていることである。当時の銀山は大内氏の支配下にあったが、商人坪内氏が銀山に拠点を持っていたことは確実であろう。尼子氏の使者を務めたことは、坪内氏と大内氏の関係を悪化させる可能性があるが、尼子氏が安堵した背景には近々軍事行動により銀山を掌握する意図があったからであろう。実際に翌二二年には山吹城を攻略し、銀山とその周辺を掌握している。
 上来島金屋子神社に奉賀を行った鑪鍛冶師は鉄の生産とともに流通にも関与しており、坪内氏と共通の商人としての性格を有していた。彼らもまた銀山と銀への関与を深めており、神社造営費用への奉賀として「銀一封」と記したのは銀が秤量貨幣で、且つ神への贈与であることを踏まえると何の問題もない。鞴の問題はなお残るが、この棟札が鞴に関する史料の再検討を迫る重要な史料であることは間違いない。長谷川氏とは異なり、この棟札と奉賀帳は正しい史料であるというのが当方の現時点での見解である。

上来島村杉戸金屋子神社棟札2

 収集した棟札の中から市史に関係するものと注目すべきものを市史中世史部会で報告し、委員で共有した。とはいえ、見落としもあろうから、長谷川氏に写真撮影を伴う正式な調査が必要であることを伝え、それをうけたのが長谷川氏の報告書である。長谷川氏からは撮影した写真がCDに焼き付けたものが送られてきた。それ以外にも、曽根氏は県内の寺社を訪問して文書調査を行っており、その中にも注目すべきものがあった。安来の雲樹寺のメモには、南北朝期の国造清孝が後醍醐から帰依を受けた孤峰覚明に依頼し、杵築社内に神宮寺、雲樹寺内に杵築大明神を勧請しあうとともに、袈裟を与えられたことが記され、戦国期に雲樹寺から再度僧が派遣されたことに関する文書があった。大内氏が出雲国を攻撃した際に、千家国造や神宮寺住職は大内氏方となったため、大内氏が敗退する際に、一緒に国外に逃れた。千家国造は、前国造の娘聟であったため、再度分家から娘聟を迎えて国造とした。娘には男子がいたが、国造を相続する年齢に達していなかったため、そのような処置となったが、その男子が国造となることはなかった。これに対して神宮寺は本寺である雲樹寺から再度住職を迎えた。
 杵築大社神宮寺については、井上寛司氏により、戦国期に尼子氏の強引な大社への介入の結果設置されたというのが通説で、井上氏は永正一五年が神宮寺の初見史料とされたが、そこには永正六年四月二四日に尼子氏の派遣した造営奉行が神宮寺に宿泊したことが記されており、永正六年が初見である。尼子氏の介入が始まる前から神宮寺があったことがわかる。そこで関係史料を捜していたところ、南北朝期の古文書そのものは残っていないが、孤峰覚明の記録には上記の事実が記されていた。寛文の大社造営時に神宮寺は神仏分離の原則により境内内から排除されたが、その事を大社関係者が大社神宮寺の三〇〇余年の歴史が終わったと記しており、清孝の時点で神宮寺が設けられたのは確実である。本殿がある狭義の境内の中に神宮寺並びに三重塔、経蔵などがつくられたのが尼子氏の時代である。それまで神宮寺が現在の北島国造館の敷地内にあったのを移したのである。
 この神宮寺については井上寛司氏が、清孝の私的な寺院であったと評価された(『松江市史』)が、その説と神宮寺が清孝の譲りをその正当性の根拠とする千家方ではなく、清孝は一期分の国造で、後継者は指名できないと主張する北島方の管理下にあることは明らかに矛盾しており、再検討をお願いしたいところである。清孝の後継者をめぐり両国造家が分立したが、神宮寺は両国造家公認の存在であり、それが故に、尼子氏造営奉行の宿泊所にもなった。なお雲樹寺の残る大社神宮寺関係文書は従来の県史の調査では確認されていなかったが、近年の史料編纂所の調査に基づく報告書には新出史料として含まれている。
 話が横道にそれたが、上来島村金屋子神社の関係史料は火災で焼失して残らないが、以前は規模の大きな神社で鑪師の信仰を集めていたとされる。その天文二〇年神在(一〇)月一五日の棟札によると、赤穴光清が大檀那となり、鑪鍛冶鉄穴上来嶋村中が施主となっている。同年二月の奉賀帳には大山鍛冶屋虎之助、奥畑鍛冶屋勇兵衛、茂加谷鍛冶屋幸十等(その他は写本では略されている)が銀一封の加勢を行うとともに、上来島村金屋子神社の由来が記されている。そこには、村下八郎右衛門が従来の差吹に代えて新たに踏吹を採用したため、大量の生産が可能となったことが述べられている。八郎右衛門の新技術は上来島金屋子神社の神徳によるが、その神社の柱が朽ちて大風雪が防げないとして、今回の造営となったことが記されている。

 

上来島村杉戸金屋子神社棟札1

 島根県立図書館所蔵「寺社史料」には数多くの新出棟札が含まれている。個々の詳細について長谷川博史氏『中世山陰地域を中心とする棟札の研究』(ネット上に公開されている)に譲るが、論者がこの史料に出逢ったのは偶然であった。教育センターで県内の同和問題に関する史料の収集を担当していたところ、県内の某資料館から関係史料が持ち込まれた。大正年間に島根県が融和事業に取り組んだ際の資料であった。一九一〇(明治四三)年の大逆事件を受けて、政府は被差別地域への社会主義への影響を恐れ、全国調査をし、融和事業を開始した。島根県ではそれに次いで一九一七(大正六)年にも全県の調査を行い、それを政府に『社会改良の栞』との題名で報告している。関係史料をみると、明治四三年調査は政府の指示によるものだったが、島根県ではそれ以後も連年実態調査を行っていた。とりわけ石見部東部のある郡と出雲部中部のある郡については詳細な郡役所の文書が残されていた。
 戦後の島根県総務部には寺社係があり、『鰐淵寺文書の研究』で知られる曽根研三氏が長らく担当していた。センターに持ち込まれたのは曽根氏のもとにあった史料で、融和事業関係は慎重な扱いが必要なため、センターに持ち込まれた。某資料館では、曽根氏が居住していたことから史料の寄贈を受け、目録カードを作成していた。その目録カードの内容を当方がエクセルに入力して全体像がわかるようにした。そうした中、融和事業関係史料を除く曽根氏の史料は県立図書館で保管され、寺社史料との名前で登録された。入力時期はエクセルのファイルから一九九八年であった。
 二〇〇〇年になり、自宅に九州大学服部英雄氏から電話があり、被差別民の問題も含めて、現地調査に基づく新たな中世史像を構築する科研に参加せよとの要請であった。その科研で服部氏が各県に保管されている地字調に基づくデータベースの構築の必要性を説かれた。実際に大学院研究科・服部研究室の卒業生で愛媛県の資料館に勤務していた東昇氏(現京都府立大学)が愛媛県のデータベース作成を行っていた。字調とは地租改正によりそれまでの字に代わって地番がふられたことを受けて、市町村に作成・報告させたものである。現在の島根県総務部に残っているのはごく一部であるが、社寺史料にはほぼ全県に渡って明治九年と一六年の字調が含まれており、県立図書館で出雲部の半分程度を写真に撮った。石見部のものもみたが、出雲部を含めて紙が虫食いでくっついており、撮影ができないものもあった。
 その中で、曽根氏の本務であった寺社関係史料も閲覧してみたところ、これまで知られていない神社の中世の棟札が大量に含まれていることに気づいた。二〇〇六年から松江市史編纂事業が始まり、中世史部会の委員となったが、県立図書館所蔵の旧島根県史編纂資料・近世資料編ならびに、寺社史料から未知の史料を発掘するため、休日を利用して県立図書館に通い、ワープロソフトへの入力を行った。寺社史料には長谷川報告に収録されていない個別神社がランクアップのため提出した申請書も多く含まれ、その中にも棟札が引用されていた。一方では井上寛司氏も近世資料(村明細帳など)の中から棟札の発掘を行われていた。その結果、『松江市史』には新出史料として多くの棟札が収録された。その中には、「神在月」の初見となるものや、城下町広島の建設に関わった平田佐渡守の不明であった実名を記したものがあった。

 

2019年12月17日 (火)

新阿弥陀寺から観音寺へ2

 正平年間の新阿弥陀寺の浸水と丘陵上への移転について、斐伊川東流に伴う洪水で宍道湖・松江地域が浸水した可能性を指摘した。たまたま佐伯徳哉氏の最近の論文で正平一六年に西日本一帯を襲った地震に伴う津波の影響ではないかと述べられていたので確認してみる。ウィキペディアには『太平記』の記事が引用されていたが、その他の史料は手元にある『日本災変通史』で確認した。
 地震に関しては正平一六年・康安元年(一三六一)の二月の京都周辺の記事がある(瑠璃山年録残篇)が、「正平地震」とは六月後半から一〇月半ば過ぎまで続いた地震を言う。基本的には南海地震であり、これに連動して東海地震が起こった可能性もあるようだ。この場合、津波に襲われるのは太平洋側並びに瀬戸内地域である。一方、記録がある近世以降の松江地域の津波は、日本海側の地震の結果島根半島北側と南側の一部で観測されており、夜見が浜半島を越えた内海での津波は確認されていない。ということで、佐伯氏の説が成り立つ余地はほぼないと断言できる。あるとすれば島根・鳥取沖の日本海で大地震がおこった場合のみであるが、その場合は浸水以前に建物の倒壊などの被害が想定され、潮が満ちて敷地を移動したとの記載に合わない。ちなみに幕末の南海地震では松江地域は震度5強、出雲大社周辺では6強で、神社関係の建物が倒壊しているが、松江における津波の報告はない。
 一方、豪雨については、近代以降浸水が確認されたのは松江市北岸は朝酌以西、南岸は矢田以西であり、竹矢と対岸の福富では確認されていない。ただし、こちらは松江地域の環境が大きく変わり、近世以降の治水対策の進展があり、中世には現在の大橋川が潟湖のような状態にあった(大山寺縁起絵巻)ことと、治水対策の未整備により浸水の程度がより大きく広範囲に亘った可能性が十分ある。当然のことながら、上流域の豪雨だけでなく、松江地域そのものの降水量が増すことによる浸水も想定される。ということで、現時点では豪雨による浸水が最も妥当な見解である。
(付記)洪水の範囲を「以東」と記していたのを「以西」に修正。また、前近代においては、浸水は当然あるという前提で安全な場所に住居が設けられていたが、時にその想定を超えた浸水があった。

2019年12月16日 (月)

石清水八幡宮領横田庄と須佐郷

 保元三年には出雲国内に八ヶ所の石清水八幡宮の別宮がみられ、近世には八所八幡との言葉が確認できるが、その八社は保元三年の八社から、飯石郡赤穴別宮・日倉別宮、神門郡大田別宮が消え、これに替わって飯石郡須佐八幡宮・由来八幡宮、大原郡木次八幡宮が加わっている。後者の中で須佐郷は建武四年に足利尊氏によって地頭職が石清水八幡宮に寄進されているが、由来と木次については八幡宮領になったことは確認出来ない。横田庄は建武元年に地頭方が後醍醐天皇により庄園領主石清水に寄進されたが、建武政権の崩壊により地頭方は天皇家領となった。一方、石清水八幡宮に関する史料はそれ以降残っていない。
 須佐郷には杵築大社国造家の一族が神主であった須佐神社がある。須佐郷司も鎌倉初期には国造の同族である出雲宿祢であったが、承久の乱後は東国御家人が地頭として補任された。文永八年の地頭は相模守北条時宗であり、須佐神社の中世後期の棟札には鎌倉時代に二度に亘って将軍により造営が行われた事が記されている。横田庄も文永年間に地頭職が三処後家尼(妙音が尼の一族であるとの説が誤りであることはすでに述べている)から六波羅探題に就任した時宗の異母兄時輔に寄進され、時輔殺害後は幕府の管理下に時輔の母尼妙音が地頭となった。一方、三処郷地頭でもあった後家尼の子達が時輔のもとで横田庄地頭代を務めていたが、妙音の時代に解任され、三処郷地頭職も没収された。三処郷地頭職も後醍醐天皇により鰐淵寺南院に寄進されたが、建武政権が崩壊したことで安定的支配は実現しなかった。
 須佐郷地頭職を得た八幡宮は、貞和三年には須佐郷が杵築大社三月会の頭役を負担する事に抵抗している。その後の史料は欠いているが、須佐郷内には近世にも八幡宮領があった。それを示すのが、慶長年間の須佐御公用算用帳である。ここに記された高二〇〇石は近世を通じて維持されている。須佐八幡宮(現在は大呂神社に合祀されている)が鎮座した地域は八幡村と呼ばれた。石清水八幡宮には横田庄に関する建武政権崩壊後の史料は残っておらず、皇室領としての実態が知られるのみである。このことが、尼妙音没後の横田庄地頭職の移動が横田庄そのものの移動と誤解された理由であろう。可能性の問題であるが、八幡宮側は室町幕府のもとでは横田庄に比べて安定的支配が見込めた須佐郷地頭職を選択したのではないか。そのため、室町期に横田庄領家職も地頭職とともに皇室領となった可能性が高い。
 ちなみに当方は、『竹矢郷土誌』(一九八九年)の中世編の中で、得宗領・北条氏領について論じ、横田庄地頭職と三処郷地頭職の問題について明らかにしている。

2019年12月15日 (日)

出雲国における摂関家領の成立

 文永八年杵築大社三月会結番帳によると、出雲国には摂関家領庄園が九ヶ所確認できるが、大規模な領域型庄園は東部能義郡に多い。近刊の佐伯徳哉氏『権門体制下の出雲と荘園支配』の中では、うち二つを鎌倉末までの成立と述べており、理解が困難である。二荘の初見史料は結番帳を除けば、応長元年(法喜庄)と建武三年(美談庄)であるが、文永八年以前の成立であることは一目瞭然である。両庄の成立時期については当ブログでも分析した結果を掲載している。また佐伯氏は文永八年の庄園の田数をそれに近い時期のものと理解しているが、公領と違って不入権を得た庄園は国衙による検注ができず、田数は庄園として立券された時期の数字である。
 出雲国内の摂関家領の成立時期について、佐伯氏は大日方氏の平安後期の出雲国司に関する研究を受けて、その下限を摂関家家司でもあった出雲守高階重仲の時期(一一世紀末)までか、としている。これは大規模な領域型庄園の成立は一二世紀初めの白河院政後期以降であり、この時期に藤原忠実により摂関家領の再編成がされたとの通説と矛盾している。福頼庄のように成立が一一世紀にまで確実に遡る庄園もあるが、その規模が約百町という結番帳にみえる規模になったのは、一二世紀前半の白河院政期後期から鳥羽院政期にかけてではないか。園山庄もその成立は一一世紀まで遡るが、大宮領をへて前斎院領となった時点で、文永八年にみえるような大規模庄園になった。
 大日方氏は高階重仲の後任となった藤原忠清以降、院近臣が出雲国知行国主となり、その関係者が国守となったとされたが、公家は複数の有力者と関係を持つことは珍しくなく、その分析は不十分である。では誰が摂関家との関係を有したかと言えば、藤原基隆・隆頼父子と藤原為隆・憲方父子である。基隆の子隆頼は嫡子忠隆、同母弟経隆の異母兄であるが、出雲守在任中の永久四年(一一一六)には藤原氏の大学別曹勧学院の学頭を務めていることが確認できる。また嫡子忠隆の娘は近衛基実の室となり、その嫡子基通を産んでいる。忠隆の子信頼は後白河院のもとで急速に台頭したが、平治の乱で没落した。為隆は夜の関白と呼ばれた顕隆の同母兄であるが、摂関家家司でもあった。白河院の娘前斎院禛子内親王に仕えていたことは前述の通りである。大規模な領域型摂関家領が成立したのはこの時期であった可能性が大きい。まさに藤原顕隆・顕頼父子により天永三年の杵築大社遷宮が行われ、基隆・隆頼父子に出雲国司は交替し、次いで為隆・憲方父子が継承した。その期間は一四年である。
 佐伯氏は島根郡法吉社が摂関家領だとしているが、法吉(法喜)庄は文永八年結番帳には「春日末社」とみえ(地頭は奈胡氏)、法吉社はこれとは別の公領(地頭は渋谷氏)である。なお、「松江市域の所領と地頭から」の記事で指摘から漏れたが、摂関家領林木庄(出雲市)は神門郡ではなく出東郡に属する庄園である。正応元年一一月二一日将軍家政所下文(小野家文書)にみえる「神門郡園林木」の「神門郡」の部分は日御崎社が入手してから書き加えられたもので、「園林木」は「園内外」が正しい読みである。本ブログで度々指摘しているように、研究論文の命はその精度である。

鎌倉時代の赤江郷(保)2

 一方、当方は「鎌倉期出雲国の地頭に関する一考察」(『山陰史談」18、1982年)の付表中の赤江郷(保)の備考欄に、「大弐僧都は幕府と関係あるか、六波羅探題南方料所、一四C初、『神県史』古代中世一六七九」と記した。その背景には、大弐僧都に与えられていた赤江郷地頭職が六波羅探題南方料所とされたとの解釈があった。同様の事例に、六波羅探題南方北条時輔が三処左衛門後家尼の寄進により得た横田庄地頭職を、その殺害により母である尼妙音が継承し、尼の死後は鶴岡八幡宮仮殿造営料所、六波羅探題北方造営料所、内裏供御料所とされたことがあった。横田庄研究をリードしてきた高橋一郎氏は、石清水八幡宮領(領家分)が料所となったと解釈されたが、横田庄が石清水八幡宮領でなるなる理由もなければ、そのことを示す史料もない。この点については、ようやく杉山巌氏「光厳院政の展開と出雲国横田荘」で明らかとされたが、至極当たり前の解釈(そう考えないと矛盾が大きい)である。
 東国御家人が得た地頭職には相続可能なものと、一時的に給分として与えられたのみで、実質的な支配者は幕府であったものがあった。横田庄地頭職は本来は相続可能な前者であったが、関係者の暗殺と死亡により幕府領となったのである。赤江郷については、大弐僧都(宝治二年に鶴岡八幡宮寺供僧に補任された慈暁であろう)は給分として地頭職を一時的に与えられただけで、その後、六波羅探題南方料所とされたものである。探題金沢氏はある時期に北条氏一族金沢氏の菩提寺称名寺二世長老明忍剱阿に赤江保地頭職を給分として与えていたが、本主(幕府関係者で給分として得ていた人物ないしはその関係者)からの訴えを受けて、返された。明忍剱阿にはその替わりに、周防国竃戸関が給分として与えることを長井氏惣領貞秀が伝えたが、その後、京都(探題)から具体的連絡がなく、明忍剱阿からの問い合わせに、長井貞秀も不審であると述べている。
応長元年七(?)月一三日に高野山金剛三昧院雑掌からの訴えを受けて竃戸関地頭代に、筑前国粥田庄住人の船に対する煩いの停止を命じている苅田顕政と藤原親家は六波羅探題の関係者であろう(金剛三昧院文書)。
 赤江保は、時に国衙がその税の納入を妨げることがあったが、基本的には掃部寮の所領であった。それが治承・寿永の乱ないしは承久の乱で在地領主が没落し、東国御家人が地頭に補任された。ただし、実質的には幕府領で、六波羅探題が支配し、給分を与えられる人物は交替してきた。一四世紀初めに称名寺長老明忍が給分として得ていた赤江保地頭職が本主に返されることになり、明忍には替地が与えれることになっていた。北条氏領の研究(秋山哲雄氏と川島孝一氏)ではいずれも赤江保(六波羅探題南方料所)を北条氏領の中に入れている。赤江郷(保)は国衙分と地頭分に分かれ、南北朝期には前者が赤江郷、後者が赤江庄と呼ばれた。鎌倉期の赤江郷に関しては以上のように理解しなければならない。

 

鎌倉時代の赤江郷(保)1

 中世赤江郷は現在の田頼川と飯梨川に挟まれた地域の下流部に位置する赤江町を中心とし、田頼川西岸の西赤江町、飯梨川東岸の東赤江町を含む領域に所在した国衙領である。ただし、河川の洪水等の影響を受けやすく、その領域は何度となく変化した。その税が直接掃部寮に納入される便補保であったことから赤江保と呼ばれることもあった。この赤江郷については井上寛司氏「中世出雲国赤江保(荘・郷)と赤江八幡宮」(『道重哲男先生退官記念論集』、1994年2月)が唯一の専論としてあり、平凡社版『島根の地名』(1995年7月)の「赤江郷・赤江庄」の項も同氏による執筆である。ただし、その内容にはいくつかの課題があり、以下で再検討していく。
 文永八年杵築大社三月頭役結番帳によると公田数一八町三百歩で、地頭は大弐僧都であった。井上氏は大弐僧都の比定はできないが、中世成立期以来の赤江郷の領主が承久の乱の際に反幕府方(後鳥羽上皇方)に与して没落し、代わって大弐僧都が地頭職を獲得したものと推測されている。承久の乱と結番帳の間には五〇年の年月があり、大弐僧都が乱により地頭職を得た人物と同じ可能性は低い。それ以上に、能義郡は鎌倉初期から東国御家人が地頭に補任された所領が多く、治承・寿永の乱で平家方となったことにより赤江郷の領主(国御家人)が没落した可能性もある。
 井上氏は延慶元年(一三〇八)頃の年未詳九月二六日長井貞秀書状(金沢文庫文書)に「南方料所出雲国赤江保を本主に返した」とあることから、文永八年以後に、幕府の後押しを経て公領に戻されていた赤江郷が復興されて赤江保となったが、掃部寮ではなく六波羅探題料所となったことと、それが一四世紀初めに六波羅探題南方の金沢貞顕の好意により掃部領に戻されたとの解釈を提示された。 これが南北朝期の康永三年には「赤江郷」、正平八年には「赤江庄」と見えている(赤江八幡宮文書)。井上氏は鎌倉幕府の滅亡により赤江保が収公されて「赤江郷」と呼ばれたことと、観応の擾乱後、伯耆国の山名氏が出雲国に進出する中、南朝方が優位となり、赤江郷は南朝により没収され、新たに庄園として立券されたとされた。

 

2019年12月12日 (木)

出雲国における領域型庄園の成立

 一つ前の記事以前では前斎院=禛子内親王としていたのが、「賀茂斎院」を詳細に述べたHP(大変詳細で信頼がおけるものである)では「禛子」が「禎子」となっており、やや混乱して前斎院を禛子内親王の後任であった官子内親王としてしまったが、明らかな矛盾があり、もとに戻した。禛子内親王は白河が寵愛した中宮藤原賢子との間の娘で、同母姉には媞子内親王(二一才で死亡し、これを嘆き悲しんだ白河が建立した持仏堂に平正盛が所領を寄進したことで有名)と令子内親王(甥である鳥羽天皇の准母とされ、即位後は皇后となる)がおり、堀河天皇は同母兄である。為隆子憲方は前斎院禛子内親王の申請により元永元年六月八日に叙爵している。
 『永昌記』には為隆がしばしば前斎院のもとを訪問したことが記されているが、保安五年四月九日条には、出雲守憲方が行った功を重任功と認めることとともに、前斎院の御封未済への前後策が政府で協議されている。そのためであろうか、二八日には、大宮領の五ヶ所が前斎院領として渡されることとなり、使者を荘園に派遣し、預人(預所、後の領家)に年貢を注申することを命じた院宣が出されている。為隆は二八日に続いて二九日にも前斎院のもとを訪れ、出雲守憲方と参会しているが、そのテーマは「御領事」であった。前述の五月五日条には憲方が前斎院の年預であったことも記され、五月一〇日には前斎院の職事補任について、藤原清隆を通じて執奏している。六月一九日には、四月に太皇太后宮から譲られた荘園五ヶ所への使者派遣について前斎院庁下文が出され、これに出雲守憲方が加判したことが記されている。この五ヶ所の中に園山庄が含まれていたとみてよかろう。
 問題は大宮=太皇太后宮が誰かである。同母姉令子は後に二条大宮、二条太皇太后と呼ばれているが、この時点では皇后宮であり、太皇太后宮とは後三条天皇の前任者である後冷泉天皇の皇后藤原寛子(四条宮)となる。大治二年八月一四日に九二才で死亡している(昭和天皇の皇后良子が九七才で死亡するまでは最年長の皇后経験者であった)。寛子は頼通の娘であるが、禛子内親王の母中宮賢子は摂関家藤原師実(忠実の祖父)の養女として入内していた。大皇太后寛子領が頼通領を継承したものとの推定も可能だが、寛子は後冷泉の死により三三才で出家し、三九才で太皇太后になっているが、その荘園は白河院が実権を持ったその後期院政時に寄進され、太皇太后宮領とされていたものであろう(頼通領を傳領した可能性もあると訂正)。
 以上のように、吉田経房が領家であった出雲国薗山庄は白河院政期後期に白河院のもとに寄せられ、大宮領とされたものが、保安五年に白河院の娘禛子内親王に譲られ、前斎院領となった可能性が高い。出雲大社正殿造営への協力を命じた康治二年三月一九日官宣旨でも、前回の天永三年の遷宮以降、庄園(不輸権あり)が立券され、加納(雑役のみ免除)が認められた所領が増加したことが述べられている。石井進氏は論文「院政時代」の中で一定の領域を持つ巨大庄園が増加したのは鳥羽院政期であることを明らかにしたが、その後、五味文彦氏の批判を受けて、白河院政後期以降とした。出雲国における領域型庄園の成立も同様である。園山庄と待賢門院御願寺円勝寺領となった長海庄の成立は鳥羽院政期以前であろう。これに対して、鳥羽院政期に成立した庄園として安楽寿院領佐陀社、後に八条院庁分領となった大原庄、歓喜光院領来海庄、崇德天皇の御願寺成勝寺領となった揖屋社と飯石社、それに崇德院庁分となった出雲大社領があった。出雲国内の大規模摂関家領が成立したのもこの二つの時期であろう。

 

2019年12月10日 (火)

園山(神西)庄の本家

 園山庄の本家を記した史料は管見の限りないが、平安末期の領家吉田経房が斎院頒子親王と密接な関係を有したことは「園山庄領家吉田経房と五辻斎院」で述べた通りである。園山庄の成立は経房の祖父為隆(知行国主)と伯父憲方が出雲国司であった時代であると推定できることも前述の通りである。この点について補強したい。
 斎院について検索する中で、遠藤基郎氏の二〇〇〇年歴研大会報告のレジメがヒットした。そこには、『永昌記』天治元年(一一二四)五月五日の記事から、円宗寺御八講に際して、記主藤原為隆が前斎院に菖蒲を献じたことと、雲州(子憲方)が年預の故であることが述べられている。この記事そのものについては知っていたが、その意味を考えていなかった。そこで関連記事を探すと、『永昌記』四月一日の記事には、為隆が早朝に前斎院のもとに参り、御装束の更衣に奉仕するとともに、雲州から几帳一〇帖を献じ、別納の畳を改めて鋪いたことが記されている。為隆とその子憲方が前斎院に仕えていたことが確認できる。為隆は保安二年(一一二二)一二月一五日に遠江守を辞して子憲方を出雲守とし、翌三年正月に蔵人頭、一二月には参議に補任されている。前斎院とは白河天皇の娘禛子内親王で、康和元年(一〇九九)に斎院となり、嘉承二年(一一〇七)七月一九日に斎院を退下している。保元元年(一一五六)に七六才で死亡している。
 園山庄は為隆・憲方父子が仕えていた前斎院禛子内親王を本家として寄進・立券されたと思われる。禛子内親王の没後、園山庄の本家は不明確(機関としての斎院であり、個々の内親王ではない)となったのではないか。一方領家は、為隆から憲方へ、次いで憲方からその嫡子頼憲へ継承されたのだろうが、頼憲はともに藤原知通の娘を妻とする縁で関係を深めた藤原惟方(系図には「本名顕方、為惟方卿子」とある)が、平治の乱で失脚したこともあり、頼憲本人とその子が公卿となることはなかった。憲方の同母弟光房もまた公卿になることなく死亡したが、その子経房とその同母弟光長、異母弟定長は揃って公卿となった。こうした中で、園山庄領家は頼憲から従兄弟の経房に継承されたと思われる。斎院領であるが、本家の影は薄く、吉田氏領というべき所領であった。
[付記]前斎院は官子内親王ではなく、異母姉(母は白河中宮賢子)禛子内親王であり、それに伴い記述を修正した。
 

一二月の近況から

 遅ればせながら佐藤進一氏が二年前に死亡されていたことを知った。石井進氏が戦後の最良にして最後の実証史家と評価されていたが、その通りであった。鎌倉幕府と室町幕府の両方に関する本格的研究を行ったのは氏以外にはいない。直接お会いする機会はなかったが、氏の著作物で最初に恩恵を受けたのは『古文書学入門』である。現在に到るまで古文書を考える基準となっている。『南北朝の動乱』については言うまでもないが、『鎌倉幕府守護制度の研究』『室町幕府守護製度の研究』は現在でも関係箇所を参照することが多い。今年九月には名古屋を中心とする中世史研究会が氏の業績の再検討をテーマとする研究大会を開催していた。同会は一九七三年に佐藤氏、網野氏が中心となって設立されている。
 氏の同世代の研究者としては一才下の古代史家井上光貞氏がいる。今年二月には古代史研究者直木孝次郎氏が一〇〇才で亡くなり、一二月に入っては日本の歴史人口学の先駆者速水融氏が九〇才で亡くなった。速水氏は中世史家では網野善彦氏と同世代であるが、ともに渋沢敬三が主宰した日本常民文化研究所に勤務していたことを知った。網野氏は佐藤氏の名古屋大学の後任と思い込んでいたが、確認すると、網野氏の名古屋大学文学部助教授就任が一九六七年二月、佐藤氏は東大文学部教授辞任一年後の七一年一一月に名古屋大学に迎えられていた。ふと、平泉澄氏(途中で皇国史観に転向)と佐藤進一氏の間の中世史の教官は誰だったかと思い調べるが、中世経済史の宝月圭吾氏であろうか。
 樺美智子さんの遺稿集『人知れず微笑まん』の中に、一九六〇年当時の国史学科の人々の決議文や佐藤氏との関係が記されていたが、大学在学中に国史学科の資料室(論文の書庫)の机の引き出しに、黄色く変色した当時の決議文が入っていたことを思い出した。決議文を見たのは三回生であった一九七八年の事ではなかったかと思うが、その時点では樺さんについての知識は余りなかったと思われる。遺稿集を読んだのは二〇年程前であったと思う(所持する本の印刷年をみればある程度のことはわかるが、すぐには見つからず)。

2019年12月 2日 (月)

史料のデジタル化3

 現在はOCRは原則として想定していない。OCRなら300dpiが良いそうだが、現在は白黒文字中心の資料は200dpiでスキャンしている。横書きの原稿なら、OCRが利用しやすいが、大半の資料は縦書きである。現在のOCRの基本となる文字識別の機能は2015年ごろで開発がストップしているそうだ。そのため、OCRの主要ソフト(現在では三種類に減少)のバージョンはナンバー15でストップし、アクロバットのOCR機能との差が縮小しているとのこと。アクロバットはOCRから撤退したエーアイソフト(エプソンの関連会社でエプソンのスキャナーにはその機能限定版が付けられていた)から技術を譲り受け、改良しているため、横書きならば差がないそうだ。
 とりあえず、一二月四日に斐伊川その他の関連で県立図書館に閲覧申請した文書の撮影を行うが、デジカメとともにCZUR Aura Pro (利用にはパソコンも必要。一時間程度なら、スキャナーとパソコンのバッテリーはもつであろう)も携帯して利用する予定である。上からのライトとともに、横からのサイドライトも備えている。A3までなら十分対応できる。村と郡の境をめぐる紛争の資料で、地図も添付されており、それはサイズにもよるが、カメラを利用したい。カメラはバッテリーを三個持っている。ペンタックス製で、スマホにアプリを入れれば、スマホから対象をみながら、シャッターの遠隔操作が可能であるが、その都度ピントがあうのであろうか。

史料のデジタル化2

 とりあえずは、『出雲尼子氏史料集』上巻と『大社町史』古代中世史料編一、『八束郡誌』のPFD化を行った。左右の一方に高さを調整するものを入れて水平に近くなるようにして行った。湾曲した本用のモードもあり、その場合は見開きで撮影すると、左右が別のファイルとなる。そのページの特定の部分のみを撮影するモードもある。自動モードでは、湾曲しないように、手や道具で抑えるのだが、それを無視して本の部分のみを撮影する。ただし、時によっては手を含む周辺を含めて撮影する場合もあり、コツがつかみにくい面がある。余計なものが入らないように特定部分モードでも撮影してみたが、厚いものだと本までの距離かなり変わる。その都度ピントを調整てくれるが、スキャンが終わる前に動かしてしまうと不鮮明になる。
 大社町史と八束郡誌は本体が分解寸前であり、デジタル化と同時に本体を廃棄するために行った。分解寸前のため開いて平らにするのは容易であった。国会図書館などからコピーした論文は一枚ものであり、中にはA3見開きのものがあったため、キャノンではなく、ブラザーの複合機を利用した。一枚ごとにスキャンするとスピードがキャノンより遅くイライラさせられたが、シートフィーダを利用すると驚くほどスピードアップした。各駅停車の普通列車と直通の特急列車の違いであろうか。
 文字が薄い原稿は、明るさとコントラストを調整するが、この場合は一枚毎が都合がよい。シートフィーダ利用では一枚毎の調整はできない。文書の写真は画像データのままがよいか、PDF化がよいか微妙である。とりあえずアクロバットの高機能バージョンを使用しており、相互のデータ形式の変更は容易である。結局のところは、作業を積み重ね、機器に慣れた上で、何をデジタル化して、何を原本を廃棄するかが最も重要なところである。ついで、どの方法を採用するかである。文書の写真は画像データのままがよいか。ソフトによっては複数枚の画像を一つ一つの写真に区別してファイルしてくれるものもある。

 

史料のデジタル化1

 手持ちの史料の整理をどうするかで、自炊用のスキャナーを導入した。一時は本を解体する破壊型が注目されたが、現在は非破壊型も登場している。従来の平面スキャナーも併せて利用し、臨機応変に対応することが大切である。すべてをデジタル化する必要も無いし、方法の違いによるメリット、デメリットがある。
 平面スキャナーは二年ほど前に購入したエプソン製があるが、まだ一度も使用していない。複合機のスキャナで事足りている。ノートパソコンとつなげば場所を選ばず、電源のない場所でも一定時間使えるのがメリットか。一方ではデジカメとスマホのカメラ機能が進歩しており、こちらは単独で利用できる。
 複合機もこれまで様々使用してきたが、デジタル化用としてはキャノンMP950とブラザーのMFC-J6710を使っている。前者はデジカメと同じくCCDを使用しており性能が高く、付属ソフトのMPナビゲーターも使い勝手が良い。一四年前の機種でもあり、ウィンドウズ10でも利用可能だが、途中で止まる事のない8.1か7が無難である。後者はCISタイプだがA3対応で且つシートフィーダを備えている。こちらは八年前の機種でウィンドウズ10でも問題ない。一枚物なら、一枚ずつ読み取るのもシートフィーダを利用するのと10倍ぐらいスピードの差があるように感じられる。前者はプリンター機能は使用不能で、後者もモノクロ印刷のみ可能で、本来ならとうに廃棄しているものだが、代替しがたい機能を持ち、データのPDF化も容易である。
 より新しい複合機も、インクジェットタイプ(内一台は面倒ではあるが、A3のスキャンと印刷に対応)、トナータイプ(FAX兼用でモノクロ)ともに所有しているが、プリンターとコピーとしてのみ利用している。
 デジカメの性能も向上しているが、コピー台がないと、手ぶれが生ずる危険性がある。またファイルサイズが大きくなる。そうした中、非破壊スキャナーの存在を知り、購入した。個人用の価格は一万円未満から五万円以上するものもあるが、足踏みでシャッターをきることができるCZUR Aura Pro を導入した。同程度の価格のCZUR ET16 Plusもあり、その機能は一長一短だが、バッテリー内蔵タイプが選べる前者にした。よく分からないが、キャッシュレス払いでの5%引きの対象であった。アマゾンのレビューは今秋発売の製品であり一年前発売の後者より少ないが、ネットでは詳細なレビューがあり、それで決めた。クラウドファウンディングで日本語に対応した製品の販売にこぎつけたとのこと。

 

2019年12月 1日 (日)

建暦二年二月の前出雲守

 建暦二年二月 日後鳥羽院庁下文には「前出雲守藤原朝臣(花押)」がみえ、『鎌倉遺文』では経賢と注記があり、井上寛司氏作成の出雲国中世史史料目録でも、これが記載されている。経賢は吉田資経の異母兄経賢であろうが、その花押は異なっている。同文書は『大日本史料』四編一一冊にも収録されているが、前出雲守の序列の一つ後の中宮権大進藤原朝臣が経賢であった。要は『遺文』収録時に誤って注記がずれてしまったのである。これ以前に出雲守であった事が確認できる藤原家時と藤原光実について確認したが、建暦二年二月時点で家時は少納言、光実は右衛門佐であり、該当しない。という事で、それ以外の人物であろうか、現段階では比定はできない。知行国主源有雅の嫡子資雅の母は藤原範光の娘であり、範光の子光実も出雲守となっており、その関係者の可能性はある。
 別の箇所でも述べたが、『鎌倉遺文』は史料の存在を広く周知するためのもので、文書名や時期、人名の比定になお課題を残している。問題はバトンを受け取った側がより高い精度の検討を加えた上で史料集や論文に掲載する事だが、それをしていないものが多い。それでは研究の水準に達したものとは言えない。

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