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2019年11月16日 (土)

美談村と上鹿塚村の違い

 寛永三年美談村本田畠検地帳によると、惣田数四〇町二畝二四歩、四六五石五斗二升五合、惣畠数一七町九反二畝六歩、九八石二斗二合である。新田畠検地帳では、惣田数七町九反五畝一五歩、惣畠数六町四反五畝三歩であるが、田では上田・中田がなく、畠では上畠はみられない。これが洪水後の正保四年本田畠検地帳では惣田数四町三反三畝六歩、五五石四斗八合、惣畠数三町五反三畝二一歩、二三石四斗五升。新田畠検地帳は残っていない。洪水により本田畠と新田畠の区別が一時的に無効となった可能性もあるが、同じく洪水被害の大きかった上鹿塚村では正保四年の新田畠検地帳は作成されている。
 本田畠の石高で比較すると、本田は寛永三年の一二%、本畠は五六%に減少している。このデータは検地帳の末尾の集計部分をみればわかるが、とりあえず、減少した正保四年検地帳も一枚(頁)ずつ繰ってみた。枚数としてはそこそこあり、田は何故一二%に減ったのかという印象を受けた。田の筆数はそこそこあるが、一筆の田の面積がとにかく小さいのである。元禄郷帳によると寛文四年の美談村本田は八六〇石余、新田は一〇石余であり寛永三年よりかなり多くなっている。その後は大きな被害が少なく、急速に回復したのであろうか。正保四年の本田は田数は少ないが、上々田、上田が占める割合は二九%である。寛永三年の本田では上々田はなく、上田の割合が一一%である。条件の良い田の方が洪水の影響を受けにくかったのだろうか。
 正保四年の上鹿塚では、上々田はなく上田の割合が七%弱に過ぎずない。寛永三年の検地帳は途中までしかのこっていないが、集計すると上田が二町五反確認できる。これが正保四年の本田は三反九畝にすぎない。条件の良し悪しに関係なく被害を受けたのであろうか。同じく被害を受けた美談と上鹿塚でも状況は異なっている。元禄郷帳による寛文四年のデータは本田一〇九石余、新田八六石余と、美談村がほとんど本田であったのに対して、上鹿塚では新田が四四%を占めている。

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