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2019年11月 3日 (日)

史料の残り方1

  近世松江藩の検地帳の内、広島大学図書館所蔵分は松江藩に提出されたものが、明治以降、課税台帳の基礎資料として国税局のものとなり、その後、広大に移管されたものである。これに対して、村の庄屋に残された検地帳は、次の検地帳作成までは基本台帳として、変更があるたびに追加情報を記した紙が張られている。今回は安永四年の本庄村検地帳の写真撮影を行ったが、記された字名がメインであったため、個人名に張られた貼り紙の確認は今後の課題とした。本庄地域の検地帳については『郷土誌 ふるさと本庄』(以下では『本庄』と略記)の中で、広大分(県立図書館に写真あり)と公民館所蔵分が、本庄町の地銭帳とともに紹介されている。広大分には本庄村のものがなかったことと、地銭帳が寛永一二年のものであるとあったので調査した。広大分の地銭帳は和田嘉宥氏による紹介と分析があるが、その中に本庄町のものは含まれて居らず、且つ、寛永一二年とは堀尾氏に代わって京極氏が入部した翌年であり、この時期のものは外には知られていないためであった。
 最初に地銭帳をみると「寛文十二年」(一六七二)の誤りであったことが分かった。末尾には貼り紙があり、「明治五年壬申開憎」と記されている。寛文年間なら松平氏の時代で、仁多郡横田町(同一〇年)、意宇郡湯町(同一一年)の地銭帳が残っている。寛文年間には出雲大社造営が行われる一方で、六年(一六六六)年の水害と流路変更で、旧富田城下町が河床下に埋没したことが知られている。出雲部の他地域でも同様の水害があったと思われ、居住地や耕地に大きな変化があり、それに伴い調査と台帳作成がおこなわれたと思われる。『本庄』では地銭帳を本庄上分(現在の上本庄町)のものとしており、驚ろかされたが、地銭帳には字等の位置を示す情報は記されていない。本庄地区の切図と併せて考えれば、やはり現在の本庄町と同じと考えざるを得ない。道を挟んで両側に町並みがあったと思われるが、それに関する記載もない。とりあえず、家ノ間口と奥行きに基づき復元図を作成したが、最初の「孫兵衛」から二七番目の「目代傳右衛門」までが一方で、二八番目「九朗右衛門」から五五番目「役人」までがもう一方であったと考えられる。家数五五軒中四軒が御役御免屋敷で、「六畝歩 目代」「四畝歩 年寄」「三畝歩 役人」「壱畝三歩 医師」であった。仮に前者を西町、後者を東町とすると、北側出口西側に「目代」があり、その対面である「九郎左衛門」が年寄であったことになる。面積上でも目代傳右衛門に次いで二番目であった。北側出口を西方向に左折した先に「大通寺」がある。南側出口の役人宅は他の御役屋敷と同じ「三畝歩」であるが、役人の業務については不明である。

 

 

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