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2019年11月22日 (金)

勝部宿祢、神門系と大原系

 この点については過去にも述べたことがあるが、現段階の見解を以下で述べる。
 大伴氏系図(稲田家所蔵)は大原系勝部宿祢の系図であり、神門系や仁多系の情報はほとんど掲載されていない。両系の関係者が没落したからであろう。また、早くから出雲国で活動してきた勝部宿祢、出雲宿祢に対して、中原朝臣、藤原朝臣、平朝臣は遅れて出雲国に入り、治承・寿永の内乱や承久の乱で没落した宿祢系の人々に代わって出雲国衙内での地位を向上させた。建長元年六月日大社遷宮注進状に署名しているのは、勝部宿祢三名、藤原朝臣と平朝臣が各二名で、鎌倉初期に勝部宿祢に次ぐ勢力を持っていた出雲宿祢と中原朝臣は姿を消している。
 『延慶本平家物語』に元暦元年二月の一の谷合戦に参加したことがみえる、円屋(塩冶)大夫、多久七郎、朝山・木須幾(木次)・身白(三代)が一党、富田押領使、横田兵衛惟澄については、富田押領使を除けば勝部宿祢一族であろう(万田庄の項で多久氏を藤原姓としたが、修正する。当該部分も削除した)。塩冶、多久氏は神門系、横田氏は仁多系であろう。七名中には国衙の所在した意宇郡やその北側の島根郡の関係者がみえないが、因幡国からの参加者が記されていないように、出雲国からのこれ以外参加者があったのは確実である。これにより勝部宿祢一族中から没落するものがあり、これに代わって、中原朝臣が台頭した可能性が高い。朝山・木次・三代の三名は官職がなく、一党とはこの三人で、いずれも大原系勝部宿祢であったと思われる。一二世紀半ばの大社遷宮の記録により、大原系の祖となる勝部元宗は勝部宿祢一族惣領で神門系である孝盛とともに、五人の庁事に名を連ねている。序列は孝盛が一位、元宗は五位である。二位から四位までの人物はその名前と建久二年との対比から出雲宿祢一族と藤原朝臣一族の人物であろう。
 神門系とした多久七郎跡の多久郷には頼朝の側近中氏が地頭となったが(中氏は承久の乱後で、大原系に交替)、塩冶郷は勝部宿祢一族の政光が郷司の継承を認められた。建久二年と五年時点の勝部宿祢惣領資盛は出雲国東部の出雲郷等の郷司であった可能性が高い。序列一位の庁事資盛と在庁政光が神門系で、残る庁事四名は中原朝臣が二名(序列二位頼辰と三位時光)、藤原朝臣(四位孝季)、出雲宿祢(五位季成)が一名であった。建久五年時点の勝部宿祢一族のその他の在庁万田明元、法吉孝光、朝山惟元は大原系で、仁多系の人物はみられない。
 これが承久の乱後の建長元年には、筆頭の在国司朝山昌綱、庁事である万田明政、平田広政はいずれも大原郡系で、残りの庁事四名は藤原朝臣と平朝臣が各二名であった。神門系の所領であった塩冶郷は守護佐々木氏が地頭となり、出雲郷は多胡氏が地頭に補任されている。多胡氏は楯縫郡平田保と仁多郡馬来郷の地頭にも補任されているが、平田保は大原系の、馬来郷は仁多系勝部宿祢の所領であった。出雲郷に隣接する竹矢郷は得宗領となり、石清水八幡宮領平浜別宮は守護領となっている。出雲西部の中心所領である塩冶郷と朝山郷は乱以前はそれぞれ神門系と大原系勝部宿祢領であったが、守護領となった塩冶郷に対して、朝山郷は大原系の惣領惟綱が没落したのに対してその弟元綱が継承することを認められた。
 建保二年七月二五日神祇官下文により佐陀御領下司職に補任された勝部四郎丸について、過去に大原系としたり、そうでないとしたりしているが、その朝山惟元の子である惟綱と元綱が元久二年に右兵衛尉と右馬允に補任されており、四郎丸はその弟である後の長元であろう。ただし、前任者が没落したのではなく、養子に入るなりしての補任であった。

 

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