koewokiku(HPへ)

« 伊秩庄は飯石郡内 | トップページ | 康治二年の官宣旨と太政官符 »

2019年11月24日 (日)

本庄と新庄

 出雲国で、本庄と新庄に分かれているのは能義郡富田庄、島根郡長海庄、大原郡淀庄、楯縫郡万田庄、神門郡園山庄である。園山庄は成立時期の明証を欠くが、出雲国内のこれらの庄園は、一二世紀前半に寄進・立券が行われ、後に本庄と新庄に分かれたものであろう。立券時に不輸権を認められた中核部分が後に本庄になり、当座は雑役のみ免除された周辺部分が新庄となった。巨大庄園群の代表である八条院領はこの時期に集積された。保元の乱後の新制により、このような手法は禁止され、一定の中断期間を経て、後白河院が自らの経済基盤を強化するため、持仏堂を建立し、そこに庄園を集積したことにより再開された。巨大庄園群長講堂領は八条院領よりも遅れて形成された。
 これに対して、安楽寿院領佐陀社、成勝寺領揖屋社・飯石社、八条院庁分領大原庄、歓喜光院領来海庄(独立した庄園とはならなかったが、永享一一年痰氏碧彦二郎・弥三郎連署寄進・譲状には来海庄新庄分とある)、崇德院庁分領杵築社も保元新制以前=一二世紀前半の成立であるが、本新庄には分かれていない。この違いはどこにあるのだろうか。杵築社領は国司と関係者(国造、在庁官人)の寄進地をまとめたものが寄進されたもので、すでにある枠組みがそのまま継続している。大原庄は大東庄の別称と考えられるが、ここも南・北や飯田・縁所という公領がそのまま寄進・立券された形である。文永八年の地頭もその区分に基づき五人いた。北分がさらに二分割された形である。佐陀庄は定田数二八〇町の出雲国最大の庄園であるが、その割には島根郡と秋鹿郡にまたがる庄域は広くない。富田庄は本新庄併せて一三〇町であるが、佐陀庄の倍以上の庄域を持っている。来海庄は一〇〇町であるが、これも庄域は現在の松江市宍道町来待に相当し、広くはない。揖屋社と飯石社は神社の周辺地域が庄域で、田数はそれぞれ三一町余と一四町余である。淀庄は本新庄併せて三五町であるが、その庄域は雲南市大東町新庄から松江市との境にまで及んでいる。
 以上の庄園は不輸権を得た後に不入権を認められている。その後は国衙の検田使も庄内に立ち入ることができず、田数は固定化している。一般的には立券時の田数がそのまま使われ、文永八年の田数も同様である。一二世紀前半に成立した庄園には二つの類型があり、すでに中世的公領としての枠組みがある複数の所領が寄進・立券された事例と、広大な周辺地域を囲い込んで寄進・立券された事例とではその後の展開に差があり、後者が、本庄から独立して新庄が生まれている。前に佐陀社と上総国橘木社への国司の対応の違いを例に、後者のケースを認めるがどうかは、寄進先が誰か以上に、国司が誰かによっていた。院近臣が国司(知行国主)であれば認められやすく、実務官僚が国司であれば、在庁官人の反対もあってこれを認めなかった。石井進氏が能登国の例から、鳥羽院政期に庄園の寄進・成立が多いことを論証したが、その大半は持明院通基の嫡子通重が能登守であった時期で、田数五〇〇町の摂関家領若山庄のように巨大庄園が相次いで立券されたため、田数では鳥羽院政期が七四%を占めていた。ただし規模が小さいが、幕府成立後(後白河院政期)の事例が九あり(田数では一四%)、鳥羽院政期の八を上回っている。

« 伊秩庄は飯石郡内 | トップページ | 康治二年の官宣旨と太政官符 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 伊秩庄は飯石郡内 | トップページ | 康治二年の官宣旨と太政官符 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ