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2019年11月24日 (日)

康治二年の官宣旨と太政官符

 出雲国に関する表題の二通の政府文書から、抽出すべき情報は何かについて、以下で述べたい。
 三月一九日の官宣旨は、出雲守藤原光隆からの解状をうけて出されたものである。保延四年(一一三八)末に出雲守源光隆と安芸守藤原光隆が相博した。これに伴い、待賢門院分国は出雲国から安芸国に遷ったが、その背景として、出雲大社造営が現実の問題となったことがあった。源光隆は女院関係の寺院・御所の造営を担っていたため、出雲大社造営との両立は困難であり、有力な院近臣清隆を父に持つ一二才の藤原光隆が出雲守となった。造営に向けての準備はしていたであろうが、三年目の保延七年六月に神殿が倒壊し、待ったなしで造営事業に取り組まなければなくなった。ところが、光隆の解状が引用する在庁官人解状が主張するように、不輸権を持つ庄園の立庄や雑役を免除された加納が次々と認められ、公領だけでなく庄園にも造営役を負担させることが困難となっていた。前回の天永三年(一一一二)の遷宮事業時は世上復興(一度は荒廃した公領の復興が進んでいた)時であったのに対して「国中衰微之今」だとしている。このままだと増加した庄園が国務に従わず、材木を拒捍する事態となり、造営は進まないというのである。庄園・公領を問わず事業に協力するのは、康平五年(一〇六二)や天仁三年(一一一〇)の例で明らかであると正当性を主張している。康平五年と天仁三年は仮殿造営が終わり、正殿造営が開始された年であり、その時点で政府から命令が出されていたのだろう。天仁三年には不足する造営のための材木が因幡国等からもたらされ、ストップしていた事業が再開され、三年で正殿造営が完了したことも述べている。
 国守光隆と在庁官人は大社造営では共通の利害に立っていたが、庄園への対応は両者の間に差があった。光隆の父清隆は院近臣であるがゆえに院の御願寺に対する庄園の寄進と立券を容認した。康治二年(一一四三)八月一九日の太政官符では鳥羽院が建立した安楽寿院とその庄園に対する官使と国使による干渉が禁止されており、その末社として上総国二宮橘木社とともに、佐陀社が挙げられている。両社は領知する輩が後代の妨げを断つため、所領を鳥羽院庁に寄進したとしている。橘木社は保延七年(一一四一)時点では鳥羽院の中宮であった待賢門院庁の判官代であった藤原通憲(信西入道)が鳥羽院に寄進し、院使が派遣され、立券が行われようとしたが、在庁官人と隣接する庄園から四至牓示石の設置をめぐって異論が出され、作業が中断する中、院使は都に帰ってしまった。上総守(親王任国であるため実際には介)と在庁官人は鳥羽院への寄進であろうと、庄園の立券には抵抗したのである。大社本殿が顛倒した同じ年であるが、出雲守光隆と知行国主清隆は庄園の立券に協力的であり、在庁官人とは利害を異にしていた。鎌倉初期の佐陀社領家円雅は花山院兼雅の子であるが、兼雅の父忠雅は幼少時に父が死亡したため、母の兄弟で鳥羽院近臣筆頭となった藤原家成らと一緒に育っている。佐陀社の寄進・立券に保延七年当時三五才であった右衛門督家成が関与していた可能性が高い。出雲守の源光隆の時代には長海庄が待賢門院の御願寺円勝寺に寄進・立券され、藤原基隆の子経隆か、その前任である藤原為隆の子憲方が出雲守であった時期には神門郡園山庄が成立したと思われる。
 仮殿造営に対する国内の協力状況から在庁官人が国守光隆に対して解状を提出し、父清隆とともに大社造営を期待されていた光隆は政府に解状を提出し、その結果出されたのが、康治二年三月の官宣旨であり、久安元年(一一四五)一一月二五日には正殿遷宮が完了した。翌年末に光隆は元出雲守であった経隆と相博して但馬守に遷任した。庄園の寄進・立券にたいする姿勢は経隆も同じであり、彼の在任中に出雲大社領が崇德院庁に寄進・立券されたと思われる。

 

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