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2019年11月29日 (金)

大原郡淀庄の領家

 大原郡淀庄については、嘉元四年(一三〇六)六月一二日昭慶門院領目録の智恵光院領と蓮花心院領の両方にみえ、淀本庄と淀新庄のそれぞれを淀庄と記したと思われる。安元二年(一一七六)二月の八条院領目録には智恵光院領、蓮花心院領のいずれにもみえない。蓮花心院は八条院の御願寺として承安四年(一一七四)に供養が行われているが、智恵光院については、てもとにある『日本史大事典』(平凡社版、全七巻)にも項目がなく、その詳細は不明である。
 八条院領目録にみえない理由としては、鳥羽院・美福門院から八条院の同母妹高松院(待賢門院の皇女上西門院の養女となり、二条天皇中宮となるが、存在感は乏しかった)に譲られ、その死(安元二年六月一三日)により、八条院領となったことが考えられる。ということで、淀庄が保元新制以前の庄園であるとの想定は成り立ちうる。南北朝期には足利尊氏が淀新庄地頭職を禅林寺来迎院に寄進している。
 ここでとりあげるのは、正和元年(一三一二)七月七日六波羅下知状にみえる前領家能登前司尚経である。編纂所データベースで検索しても関係史料はみあたらず、尊卑分脈で「尚経」を調べても該当する人物はいない。残るは「能登前司」であるが、「国司一覧」には延慶二年(一三〇九)一二月一七日御方違行幸御共奏雑事に「元能登守尚経」がみえるとある。前述の下知状には、前領家尚経の時に雑掌と地頭が相論を行い、永仁三年(一二九五)一二月に六波羅下知状が出されたことが記されている。尚経の姓は不明だが、能登守であったのは永仁三年以前であったことになる。
 尚経が御共をしたのは持明院統の花園天皇の方違行幸である。淀庄は大覚寺統の庄園であるが、尚経は両方との関係を有していた。正和元年の時点でも能登前司と呼ばれており、一度のみ国守となり、その後は~前司と呼ばれる、実務系の公家であろう(領家や目代を兼任)。亀山院のもとで淀本庄領家の地位を得たが、後宇多院への代替わりにより、別の人物が領家に補任され、その雑掌が地頭中沢氏を訴え、中沢氏の補任権は幕府ではなく領家にあることを主張したのであろうが、第三者的にみればあまりに無理な主張であった。
 とりあえずは、淀庄が八条院領に編入される前は高松院領ではなかったかという点と、領家であった某尚経の性格について述べた。以前、出雲大社領の領家について、三位以上=公卿であることがその資格として重要であるとの説を知り、有名な肥後国鹿子木庄の領家願西が微力なため国衙の乱妨を防げないとして高陽院内親王(鳥羽院と美福門院の間に生まれた長女で、高陽院泰子の養女となった)に寄進したことを思い出したが、実例をみると、公卿でない領家は鎌倉時代にはそれほど珍しくはないことを知った。尚経の場合も亀山院という後ろ盾のもとで、実務の専門家として領家になり、その死後は持明院統の花園天皇との関係を強めた。

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