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2019年11月15日 (金)

斐伊川東流の実態

 松江市史編纂室から斐伊川の東流について、中世の情報を整理するよう依頼をされているが、その一方で、近世史の研究が不足していることを痛感する。検地が行われる背景としては、各郡を順番に行い、その対象となった場合や、新たな方針が打ち出されたことに伴うものとともに、洪水で耕地に大きな変化があったこと等が考えられる。寛永年間後半の洪水でどこが被害を受けたかを確定するために、検地帳のリスト「出雲国検地帳目録」(広大所蔵のものを後藤陽一氏が中心となりまとめる)で確認すると、正保四年の検地帳が出東郡(後に出雲郡)と楯縫郡に集中していることがわかる。当時神門郡に属した出西村もあるが、これは斐伊川東岸である。これに対して、西岸の神門郡の村々の検地帳は一部を除きみられない。島根郡の国屋村と菅田村にも正保四年の検地帳があるが、同郡ではこれだけである。
 楯縫郡には多久郷久木村のように、現在の斐伊川の南岸におおきく張り出した所領があった。当該村の中には寛永三年の検地帳が残っているものもあり、これと対比することで、洪水の影響がより明確になる。実際の検地帳の記載から、洪水により大きな被害を受けたことがわかるのは、出東郡美談村(合併前は平田市)と上鹿塚村である。美談村の地は中世は九条家領美談庄内であったが、文永八年の地頭は出雲守護佐々木泰清の長子義重であり、守護領となっていた。上鹿塚は中世の志々塚保内であるが、同保も文永八年までに守護領となった上で室町院に寄進されており、一四世紀初めにはその一町が鰐淵寺南院薬師料田として寄進されていた。文永八年の地頭は『持明院殿』となっているが、これは守護が地頭職を寄進し、持明院=室町院が得分を得ていたことを意味しており、実権は守護が握っていた。その後、志々塚保は上下に分かれる(一四世紀後半には志々塚上分内五反が守護から塩冶八幡宮に寄進されていたことが確認される。ここからも室町院ではなく守護が実際の権限を持っていたことがわかる)が、近世の村の中に下鹿塚村はみられない。寛永一〇年と一五年に比定されている国絵図をみると、美談村もまたその領域が現在の斐伊川の南側に及んでいた。
 両方の村とも寛永三年と比べると、田畠は半分以下、畠は四分の一以下となっている(寛永三年の上鹿塚村検地帳は後半部分が残っておらず、推定を含むので以上の表現だが、実際にはもっと減少した可能性が高い)。田畠とも等級が高い部分が激減してもいる。これに比べて、美談村の西側に隣接した今在家村、東側の西代村、上鹿塚村の東側に隣接した久木村では洪水による明白な被害がみられない(正保四年のみで、寛永三年のデータが残っていないので、このような表現)。以上の地域は出東郡北側にあるが、南側の出西村、氷室村、神守村)も洪水による明白な被害はみられない。以上の点から、寛永年間後半の水害では美談村と上鹿塚村内で堤防が決壊したと断定してよい。当然、ここを斐伊川本流が流れていたためであり、水害後に東流したという野津左馬助氏以来の説が成り立たないのは明白である。上鹿塚村には元禄一〇年の古川分の検地帳も残っており、川違えで埋まった部分が耕地となっていたことがわかる。また、検地帳をみると平田で川違えがあった享保年間後半に上鹿塚内でも川違えがあったことがわかる。東流により洪水の被害が解決したわけではなかった。中世の斐伊川の問題を考えるため、近世の状況を検討した。

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