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2019年11月 3日 (日)

史料の残り方3

 寛文一二年検地帳には、安永四年分のように貼り紙があったことを示す記述はみられないが、その背景は不明である。安永四年の検地帳は写真撮影時から『本庄』が記す上分のみではなく、村全体のものである気がしたが、確認すると実際にそうであった。おそらく『本庄』の担当者は検地帳の末尾の部分のみ確認してあのような記述をしたのだろう。上分の畑方の集計分は末尾にあるが、田方の集計分は上方の田の末尾に記され、次いで下方の田の記載がはじまる。個々の畑(畠)に関する記載は欠落している。大部となるため別冊とされたのかもしれない。下分の田方の集計部分に続いて、上方と下方の畑方の集計部分が記されている。また、本来は末尾に記される御役御免屋敷と御役屋敷の部分も含まれていない。
 寛文一二年検地帳で御免屋敷とされた寺は昌水寺、大通寺と念仏堂、海倉寺大日堂、阿弥陀堂であるが、なぜか田の名請人として度々登場する玉理寺がみえない。玉理寺は大通寺と同様真言宗寺院で、村の鎮守である熊野神社の西側にみえる「寺中」の地にあったと思われるが、後に内陸部の山﨑の地に移転し、次いで廃寺となり、仏具などは大通寺に移されたとされている。現物は確認していないが、『本庄』にその一部が引用された玉理寺縁起の記述は概ね信頼がおけるものであると思った。この玉理寺は安永四年の検地帳にも名請人としてみえるが、その一部は名請人が変わったため貼り紙がされている。一方、名請人として「普賢寺」が頻出している。本庄地域の寺院ではなく、上東川津村中組にあった普賢寺と同一であると思われる。ただし、普賢寺は『雲陽誌』や文久二年輪切帳にはみえず、曹洞宗寺院本覚寺に隣接した場所に字名が残っているのみである。
 今回は、中世の本庄地域を考えるデータを得るために、検地帳や切図をみた。館跡や城跡に関するものはあっても、『城館分布調査報告書』には反映されていない。他の人が行った作業を検証すると、論証の精度の低さと守備範囲の狭さが大変気になる。松江市史についてもこれだけでは活用ができない事を述べた。これを踏まえた二の矢がないと、ほとんど活用されないままとなる。これまでの市史編纂でも終了時の対応が不十分であったため、せっかく集めた資料が失われたことも数多くの例があった。文書の活字化が行われ、全国の研究者が利用できるようになるとは言われるが、現在は研究者の数が急速に減少し、それとともに質も低下している。市史そのものは貴重な成果だが、これだけでは誰も利用・活用できない。これが現実である。古墳のみを調べても、城郭のみを調べても、ないよりはましな程度であり、何にもならないことを研究者は自覚すべきである。誇大広告の好きな人はいくらでも妄想を膨らませるかもしれないが、無意味である。
補足:普賢寺については、亥(文政一〇年)九月島根郡上宇部尾村宝林寺懸持本庄村普賢寺手請返答書があり(松江藩郡奉行文書213)、内容は未確認だが、普賢寺は本庄の寺であるが、当時は宝林寺住職が掛け持ちしていたことがわかる。宝林寺と同じ曹洞宗寺院であったと思われる。ただし、本庄の前に上東川津村にあった可能性は否定されたわけではない。

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