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2019年11月10日 (日)

島根郡北野末社の成立

 文永八年出雲大社三月会頭役結番帳の一番舞にみえる北野末社が、島根郡内大芦であることはすでに述べたとおりである。当時の地頭は東国御家人であろう香木三郎入道であったが、南北朝期には加賀庄地頭土屋氏の一族が後醍醐天皇から恩賞として与えられ、大芦氏を名乗っていた。一方、観応元年の曼殊院門跡所領目録に北野天満宮領として、出雲国天満宮とみえるのが北野末社であろう。大芦の天神は戦国期には存在したことが確認できるが、一二世紀後半に蓮華王院に寄進され成立した加賀庄に含まれていないことから、これに先行して寄進・立券されたことは確実である。
 では大芦を北野天満宮に寄進し、領家となったのは誰であろうか。天永元年(一一一〇)一〇月に能登守藤原基頼が能登国菅原保を天満宮に寄進し、観応元年の目録にも同国菅原庄がみえていることが注目される。基頼は右大臣俊家の子であったが、異母弟宗俊と宗通と違って公卿になることはなく、陸奥・越前・能登・常陸の受領を歴任し、康和六年(一一〇四)には陸奥守と鎮守府将軍を兼ねていた。
 その子通基は基頼五〇才時の子であったため、叔父である権大納言宗通のもとで育ったと思われる。宗通は基頼より三一才年少であり、通基は宗通の子たちよりやや年上であった。宗通は元永元年(一一一八)に鳥羽天皇中宮璋子の中宮大夫となり、基頼の娘能子は中宮璋子の典侍として、翌二年五月に顕仁(崇德)が誕生した際の御湯殿の儀式では清めるための散米を行っている。通基は大治二年正月には武蔵守見任が確認され、同年一〇月には鳥羽天皇への昇殿を認められ、一二月には宗通の養子時通に代わって因幡守に遷任している。通基は長承三年に藤原(西園寺)公通と相博して丹波守に遷任したが、因幡国は丹波国に引き続き女院の分国であった(通基については訂正)。久安元年には公通と通基娘の間に嫡子となる実宗が誕生している。
 一方、出雲国も大治五年一〇月に源能俊の晩年の子光隆が九才で国守に補任され、保延四年末に安芸守に遷任するまで待賢門院分国とされた。観応元年の天満宮領目録には、能登国菅原庄、出雲国天満宮(北野末社)とならんで、丹波国木崎庄以下四箇所と因幡国今衣社(鳥取市国府町)がみえているが、これも通基が両国守を務めた影響であろう。
 以上の事から、大芦が北野天満宮に寄進されたのは、源光隆が出雲守であった時期で、寄進し領家となったのは藤原通基であった可能性が高い。

 

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