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2019年11月27日 (水)

島根郡家の位置について

 本庄公民館で話をするため『出雲国風土記』の記述を確認したが、その中で、古代の郷の範囲について地図が作成されている(角川版『歴史地名辞典 島根』など)が、その根拠となる情報は『風土記』には記されていないことを知り驚かされた。一方、郡家の位置については、郡内の各地との距離と方向が記されているので、コンパスを使ってその交点となる場所を求めることができる。ただし、方位については正東・正西・正南・正北とその中間となる東北・北西・東南・南西の八種類しかなく、その決め方もおおざっぱな感じである。
 以前、『島根県の歴史散歩』の松江市分を担当した際に、福原町芝原が島根郡家所在地の候補となっていることを記したが、どうみても『風土記』の記載と矛盾しており、これは平安期のものかなと思ったが、『松江市史』通史編1で確認すると、芝原付近説と東持田町納佐付近説が記されていた。後者は『風土記』研究者加藤義成氏が唱えているようだが、これも郡内各郷への方位と距離からすると100%成り立たない。方位にはかなりの遊び(ズレ)があり、それを踏まえてコンパス的作業をすると、現在の島根大学北側付近となるのに、なぜなのかと不思議に思った。この説なら遊びを補正すれば矛盾がない。歴史学の研究者(文献・考古学とも)に数学的センスがない人が多いことを示すものである。法吉郷家が島根郡家の正西二三〇歩(律令制では一里=300歩=約533m)とあることから、二つの説がありえないことは明白である。本庄にある手染郷家(手角町ではなく現在の上本庄=内陸部であろう)は郡家の正東一〇里二六四歩、美保郷家が正東二七里一六四にあるのである。
 『市史』では秋鹿郡家について東長江町郡崎説が江戸時代以来の通説だが、遺跡は発見されていないとし、風土記の「秋鹿社」の南に郡家があるとの記載について、これを現在の秋鹿町の秋鹿神社とみるか、『雲陽誌」東長江の姫二所大明神とみるかで意見が分かれているとしている。後者が加藤義成氏の説だというが、神社は中世、近世と名称だけでなく場所も移動しており、途中で絶えた例も珍しくない。風土記時代の神社の所在地の客観的比定は不可能である。とりあえず、コンパス的作業をしてみるしかないが、その結果は秋鹿郡家は東長江の宍道湖沿いの場所にしかならない。『風土記』の方位は全てではないが、現在の方位と四五度程度ずれていることが多い。恵曇が郡家の東北九里四〇歩とあるが、実際は現在の方位でいうと北になる。

 

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