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2019年11月18日 (月)

斐伊川周辺の村々の状況1

 中世の神門郡常松保は、文永八年(一二七一)時点で定田一二町七反三百歩の公領であった。一六世紀には遙堪郷、朝山郷と境を接していた。鎌倉末の時点では鰐淵寺が大社宝前で行う供養の料田一町二反があった。そのため、常松保住人は鰐淵寺の許可を得て寺山に入ることができたが、一六世紀世紀半ばには、無許可で山を切り荒らす事態が発生し、鰐淵寺の訴えを受けた尼子氏奉行人が、高浜、林木、遙堪、常松や隣接する郷の衆中に対して、このような行為に対しては処分することを伝えている。
 一方、近世常松村は元和七年(一六二一)の検地で田数一八町であり、自然環境の変化に伴う範囲の変更はあるが、常松保が常松村に移行したと考えてよかろう。検地帳には田の肩に「古川」と記したものが二二筆一町七反一畝十五歩あるが、一筆九歩が中田なのを除けば、上々田一六筆、上田五筆である。過去に川(本流ではなく、支流であろう)であったところが、洪水等により埋まり、それが田として開発されたものであろうが、かなりの時間が経過したことで、安定した耕地となっていた。常松村全体でも八割弱が中田(反別一石四升)以上であり、洪水等には見舞われにくい場所であったことがわかる。さすがに「古川」には畠はなく、すべて田であった。堀江村と粟津村を挟んで東側に位置する高浜村は中世の杵築大社領高浜郷に相当するが、近世中期に南側の里方村と北側の山方村に分かれ、さらに山方村が矢尾村と日下村に分かれた。慶長二〇年(一六一五)の高浜村検地帳によると田数一一九町三反九畝九歩で、これも一石五斗以上の田の割合が七割を超えている。
 里方村の南側に隣接する高岡村は中世塩冶郷に属していたが、開発の進展に伴い、守護佐々木泰清から子七郎宗泰に譲られ、その一流は高岡氏を称した。慶長七年の検地帳では田数五一町九反二畝二一歩で、一石五斗以上の田は五七%弱であるが、一石四斗以上にすると七八%となり、ここも安定した耕地となっていた。風土記の時代にはこの北側を斐伊川本流が流れていたと思われるが、それが縮小ないしは埋まってかなりの時間が経っていることになる。次いで寛文九年には田数は一〇町以上増加して開発が進んだが、一石五斗以上の田の面積は半減している。一石四斗の区分はなく、一石三斗以上の割合も五〇%弱である。現在に近い地点を流れる本流から東へ流す流路が設けられる中で、高岡村における水害発生率は高まり、実際に起きたと思われる。

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