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2019年11月28日 (木)

松江市域の所領と地頭から

 『松江市史』通史編2中世の第一章七四頁に標題の表が掲載されている。当方は第二章を担当したが、当然、校正段階では他の章の確認も行った。それが十分でなかった点は多々ある。この表について、気になる点を遅ればせながら指摘しておきたい。
 最初にこの表を確認しようと思ったのは、古代編七六一頁の比叡山領三津御厨の記述を読んだためである、鹿島町御津に比定されてきたが、根拠は十分ではない。何よりも文永八年には三津庄がみえ、地頭は朝山右衛門尉(昌綱)跡であった。表では通説に基づき、島根郡に三津庄と朝山昌綱跡が記されているが、『島根県の地名』の出雲市(旧平田市分)三津浦の項には文永八年の三津庄であるとの記述がある。三津庄が島根郡ではなく、楯縫郡内の庄園である事は、地頭が朝山昌綱跡であることから明白である。楯縫郡には昌綱跡の所領として三津浦の南に隣接する楯縫東郷と楯縫西郷がある。比叡山との関係では楯縫郡に隣接する出雲郡内に出雲国最大の寺院である天台宗鰐淵寺があり、一〇世紀後半の三津御厨も楯縫郡である可能性が大きい。伯耆国には御厨が多いが、出雲国に文永八年の時点で御厨は一つもみえないのはなぜであろうか。
 表には意宇郡乃木保・乃白郷・日吉末社の地頭がいずれも乃木太郎兵衛尉(泰高ヵ)とあるが、乃木保は乃木七郎(景家)の誤りである。また乃木氏の出身地が出雲国とあるが、初代高綱は近江佐々木庄を本拠とする佐々木秀義の四男であり、「近江国」とすべきであろう。あと、すでに述べたように、秋鹿郡伊野郷地頭持明院殿は後深草院ではなく、当時の史料を確認すると室町院である。当方が一九八二年の論文で初めて後深草院説を提示したが、基礎知識が広がる中で自説に疑問を持ち、再検討した結果であった。大野庄地頭については大野一族とあるが、一部は土屋氏領であった。土屋氏が婚姻関係で大野氏から得た可能性は低い。土屋氏領は大野庄内東方内であるが、獲得した時期が治承・寿永の乱後か、承久の乱後かについては決め手を欠く。大野庄の東にある秋鹿郷と西隣の伊野郷はいずれも在庁官人No2の中原朝臣領であったのが、承久の乱で没収され、土屋氏と守護佐々木氏領となっており、後者の可能性が大きい。時期を特定する史料を欠いているが、佐々木泰清の代に伊野郷地頭職を持明院に寄進した可能性が大きい。これが後に秋鹿郡内でより面積の広い古曽志郷に変更された。いずれの場合も、実際の支配は守護関係者が主導権を握っていた。

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