koewokiku(HPへ)

« 斐伊川周辺の村々の状況1 | トップページ | 林木庄と美談庄1 »

2019年11月18日 (月)

斐伊川周辺の村々の状況2

 寛永末年頃洪水にあった美談村は、水害前の寛永三年の時点で本田数四〇町中、上田(一石六斗)が一一.四%、中田(一石四斗)を加えても三六.五%である。これが洪水後の正保四年では本田数四町三反三畝六歩中、上田(一石五斗)以上の割合は二九%でしかない。上鹿塚村は美談村ほどではないが、同様の状況である。寛永末の被害は明確ではないとした久木村の場合、正保四年の本田数二八四町四反中、一石六斗以上が三五.五%、一石四斗以上で六六%となる。神門郡の村々よりはやや低く、美談村、上鹿塚村よりは明らかに高い。
 文永八年時点では志々塚保(上下)が定田二〇町七反、福富保が二二町二反であった。このうち、下志々塚保と福富保は近世初頭には久木村に含まれていたと思われるが、洪水後の上鹿塚村の本田数は五町八反五畝であった。寛永三年は後半を欠くため、一〇町三反一畝以上であったことはわかるが、その内、上田の割合は二四%に留まっている。文永八年時点よりも近世初頭の上鹿塚村は水害の被害が受けやすくなっていたと思われる。以前述べたように、院政期までに斐伊川の本流は東流が中心となり、とりわけ南側が本流であったと思われるが、その後、しだいに北側の川の比重が高まっていた。これが美談、上鹿塚における水害被害の可能性を高めたと思われる。久木村の場合は東流路の東端であり、そこに来るまでの地点で堤防が決壊すれば、洪水の影響は弱まったはずである。
付記:実際に何年にどのような洪水があったのか今ひとつはっきりしない。『雲陽誌』には上鹿塚の一宮明神について、寛文一六年(一六三九)に建立(再興)したことと、正保二年(一六四五)に洪水が社殿に入って顛倒し、古記神宝悉く流出したと記されている。また、中世の下志々塚保は近世の中原村に含まれたと思われる。現在は上鹿塚と中原が合併して原鹿となっている。雲陽大数録では上鹿塚村一五〇石に対して中原村一一四〇石と大差であるが、上鹿塚で決壊することが多く、中原はあまり影響を受けなかったのだろう。上鹿塚と美談が川を挟んで対面している場所で決壊したのであろう。現在ではまさにここでカーブしている。
 

« 斐伊川周辺の村々の状況1 | トップページ | 林木庄と美談庄1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 斐伊川周辺の村々の状況1 | トップページ | 林木庄と美談庄1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ