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2019年11月20日 (水)

林木庄と美談庄2

 美談庄についても、九条家との関わりをもつ人物により寄進された結果、女院領をへて九条家領となったものであろう。九条道家の姉で順徳天皇の中宮となった立子(1209入内、東一条院、仲恭母、宝治元年死亡)や孫娘で四条天皇に入内した彦子(宣仁門院、弘長二年死亡)をへて、九条家領となったのではないか。これ以降、鎌倉末期まで九条家から院号宣下を受けた女性はみえない。
 道家の子で幕府将軍となった頼経の失脚以降不遇であった道家流で、弘長元年には頼経の兄二条良実が関白に復帰し、以後、道家流(九条・二条・一条家)が摂関家の地位を確立している。建武三年八月二四日九条道教家領目録に「出雲国林木・美談両庄領家職」がみえるが、道教は、道家の嫡子で二五才で死亡した教実の曾孫にあたる。林木庄は宜秋門院の死後九条家領となったのに対して、美談庄は遅れて九条家領となったのであろう。また美談庄は承久の乱の結果、守護佐々木義清が地頭となり、子政義・泰清をへて、義重に継承されたと思われる。
 問題は寄進者が誰かであるが、美談庄の項でのべた藤原清長その人ではないか。清長は宜秋門院のもとで中宮大進であった建久八年一二月に出雲守藤原朝経が急死したのをうけて、朝経がつとめていた出雲守と後鳥羽天皇蔵人に補任された。父定長は吉田経房の異母弟で後白河院司ならびに近衛基通の政所別当をつとめていたが、清長は後鳥羽院、近衛家実ならびに九条兼実の次男良経の政所別当を務めている(元久2年8月摂政前太政大臣(九条良経〉家政所下文、香取神宮文書)。承元四年末に立子が入内し女御となり、翌年、順徳天皇中宮とされたが、この時点で寄進・立券がなされたと思われる。良経の子が立子ならびに道家である。美談庄は出雲守護領からはずれたため、林木庄と違い、地頭職が室町院領となることはなかった。
 林木庄の文永八年の地頭は深栖蔵人入道跡であったが、十三世紀末までに守護領となり、室町院に寄進された。これに関して、元応二年六月二五日関東下知状(小野家文書)で、土屋三郎左衛門尉忠時の息女平氏に「前林木女」との割注があることが注目される。林木庄地頭深栖氏と結婚したが、その後離婚したため、このように表現されたと解釈していたが、嫁ぎ先の深栖氏が林木庄地頭でなくなったために「前林木女」と記したのであろう。仮説ではあるが、美談庄については思いの外、成り立ちそうなものとなった。
 最後に、志々塚保内の田が鰐淵寺や塩冶八幡宮に料田として寄進され、地頭職が室町院の寄進された時点では、寛永年間のように、洪水の危険性は高くなかった可能性が高い。その後の流路変更により、環境が変わったと考えられる。

 

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