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2019年11月23日 (土)

神西本庄と新庄の領域

 神西庄は園山庄とも呼ばれ、吉田経房の日記『吉記』寿永二年八月四日条に「雲州園山庄」とみえるのが初見である。経房が死亡する前年の正治元年(一一九九)に四二才の嫡子定経が、従三位参議であったにもかかわらず出家したたため、経房は定経を儀絶し、嫡孫資経を後継者とした。経房は平範家の娘を正室とし、定経も範家の嫡子親範の娘を正室としていた。経房の死後は母方の祖父親範とその嫡子で資経の伯父である基親が資経を支えたであろう。
 文永八年には本庄と新庄に分かれており、本庄地頭が海瀬又太郎、新庄地頭が古庄四郎左衛門入道子であった。承久の乱で神西庄司太郎が渋谷又太郎によって討ち取られており、その跡が没収され、東国御家人が新恩地頭として入部していきた。乱の時点ですでに本庄と新庄に分かれていたと思われる。資経は承久の乱の直後の八月に蔵人頭となり、翌年には参議に補任されているように、後鳥羽院とは距離を置いていたが、出雲国が後鳥羽院の分国で、知行国主の源有雅と守護安達親長が京方となったため、神西庄司が動員されたであろう。
 問題は本庄と新庄の領域であるが、『島根県の地名』の「神西庄」の項では、延応元年八月一八日関東下知状(『鎌倉遺文』にならい、御教書としていうが誤りである)を根拠に、神門水海の南部から常楽寺にかけての地域が本庄で、本庄の西の神門水海周辺から現在の出雲市湖陵町・多岐町辺りまでが新庄としている。しかし、そうすると新庄地頭が入部し勧請したとされる神西八幡宮や十楽寺が本庄内となってしまう。長海本庄と新庄の領域が入り組んでいたのと同様の事態を想定する必要がある。神西庄の寄進・立券は一二世紀前半で、その時点で開発が先行し、不輸権を認められた地域が本庄となり、その周辺地域が新庄となった。本庄の領域は現在の神西駅周辺から知井宮との境にかけての地域と、江南駅周辺であったとおもわれる。後者については、永禄五年二月一九日尼子義久書下で神西三郎左衛門尉に安堵された所領の中に「本新庄之内三部」とあり、現在の三部に本庄分と新庄分があったことがわかる。
 貞応二年に本庄と新庄地頭が入部した際に本庄による新庄海山への自由妨があり、新庄が幕府へ訴え、守護所で両庄地頭と古老百姓に尋問した結果、本庄の領域には海山がないことが確認された。これは本庄内に全く海山がなかったという意味ではなく、紛争地帯となった江南駅周辺の本庄分と新庄分の境界付近の状況であった。それが世代交代後の延応元年には本庄と成(常)楽寺地頭が新庄に濫妨する事態となり、再度新庄が訴え、幕府が濫妨の停止を命じている。問題が発生したのは現在の三部と常楽寺の境界付近であり、貞応二年の紛争も同様であった。

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