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2019年11月20日 (水)

林木庄と美談庄1

 以前、一四世紀中頃に九条家が林木庄とともに領家職を有した美談庄について述べた。史料を欠いているため、推測に終始したが、今回は林木庄を併せて再度述べてみたい。
 林木庄は元久元年四月二三日九条兼実置文にその娘で後鳥羽天皇の中宮となった任子(宜秋門院)領としてみえるのが初見で、九条家家司でもあった藤原長兼の日記『三長記』の同年四月二四日条には、女院領林木庄下文を、兼実から与えられたことが記されている。林木庄について具体的に述べているのは『島根県の地名』(平凡社)の同庄の項で、井上寛司氏の執筆分である。当初の担当者が執筆されなかったための代役で、当方もその影響で、斐川町の大社領以外と飯石郡掛合町分ならびに、石見国長野庄分等が分担に付け加わった。
 そこでは林木庄について、本家皇室、領家九条家、預所九条家家司との理解が示されている。これに対して当ブログの「美談庄」では、長兼と出雲国の接点を検討した。元久元年四月一二日に長兼は左中弁兼蔵人頭に補任されており、長兼が宜秋門院に林木庄を寄進し、立券が行われた結果、領家に補任されたと考えたのである。この後、長兼は権中納言にまで昇進しており、その地位が預所ということは考えられない。
 井上氏は本家が皇室(十三世紀末の室町院領目録にもみえる)であるため、領家九条家・預所長兼とされたが、室町院領としてみえる林木庄は武家所進地頭職であり、領家分が九条家に相伝されたものである。室町院領目録には古曽志庄、母里庄、志々塚上方・下方もみえるが、すべて地頭職が守護佐々木氏から室町院に寄進されたものである。それを示すのは、文永八年に志々塚保地頭として持明院殿(室町院)がみえ、元応元年には古曽志郷が守護佐々木貞清領となっていること、守護領であった塩冶郷内の塩冶八幡宮に寄進された料田の中に、郷内所領とならんで、志々塚上分、林木東西がみえることである。文永八年には秋鹿郡伊野郷も持明院殿が地頭であった。これも守護から地頭職が寄進されたものであったが、それ以降に同郡内でより規模が大きい(二七町八反の秋鹿に対して六五町九反)古曽志郷が守護領となったことに伴い変えられたのではないか。いずれにせよ実権は守護が握っていたのである。これに対して南北朝期の林木・美談庄領家職は、地頭分と区分して呼ばれているものである。文永八年の美談庄地頭は守護泰清の長子義重であった。以上により、藤原長兼は預所ではなく領家であったことは明らかであろう。

 

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