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2019年11月13日 (水)

新阿弥陀寺から観音寺へ

 新阿弥陀寺とは正和年中に平濱八幡宮領内田屋に建立された寺院である。開山である教智上人は同領内の宝光寺の開山でもある。後者が真言宗であるため、新阿弥陀寺も同宗寺院となる。宝光寺は八幡宮北側の丘陵上(現竹矢小学校)に開かれたのみ対して、新阿弥陀寺は大橋川北岸の平地に開かれた。檀那原入道覚円(本堂)と見性尼(禅尼堂)がどのような人物かは不明である。宝光寺の初見史料は貞和四年一〇月八日出雲守護代吉田厳覚書下で、下見谷宝光寺の敷地が安堵されている。これ以前の史料は後に流入したもので、当該時期の宝光寺には無関係である。
 問題は新阿弥陀寺の敷地が大塩(潮)が満ちて、正平年間に移動し、観音寺と号したことである。海面の上昇を示すものであるが、一四世紀半ばの海面上昇は確認されておらず、洪水による一時的な災害により移転したと考えざるを得ない。斐伊川が東流するようになって宍道湖東岸の松江地域が水害に見舞われる可能性が高くなったとされるが、この事例も東流を裏付ける材料の一つとなりうる。
 洪水等により場所が移転したとの情報は、寺社に関してより残りやすい。信頼性を検討しつつ利用しなければならないが、その収集が求められる。風土記時代の斐伊川本流沿いにあたる出雲市高浜(矢尾)の八幡宮は、永禄一二年秋の洪水で背後の北山が崩れ社殿が壊れたため、元亀二年八月に現在地に移転したとされるが、一方では鳴滝付近にあったのが「午の洪水」で社殿が流出し、東方二町二〇間の場所に再興されたとある(高浜八幡宮由緒書)。両者は同じことを述べていると思われるが、午=永禄一三年であり、一年のズレがある。現在は棟札そのものは残っていないが、『雲陽誌』「矢尾」には八幡宮の元亀年間(由緒書は同二年とする)の棟札があると記されている。恐らく「午」が正しく、永禄一三年(一五七〇)秋の水害で流された社殿が翌元亀二年(一五七一)に移転して再興されたのだろう。斐伊川周辺で洪水があったことを示す史料である。

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