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2019年11月

2019年11月29日 (金)

大原郡淀庄の領家

 大原郡淀庄については、嘉元四年(一三〇六)六月一二日昭慶門院領目録の智恵光院領と蓮花心院領の両方にみえ、淀本庄と淀新庄のそれぞれを淀庄と記したと思われる。安元二年(一一七六)二月の八条院領目録には智恵光院領、蓮花心院領のいずれにもみえない。蓮花心院は八条院の御願寺として承安四年(一一七四)に供養が行われているが、智恵光院については、てもとにある『日本史大事典』(平凡社版、全七巻)にも項目がなく、その詳細は不明である。
 八条院領目録にみえない理由としては、鳥羽院・美福門院から八条院の同母妹高松院(待賢門院の皇女上西門院の養女となり、二条天皇中宮となるが、存在感は乏しかった)に譲られ、その死(安元二年六月一三日)により、八条院領となったことが考えられる。ということで、淀庄が保元新制以前の庄園であるとの想定は成り立ちうる。南北朝期には足利尊氏が淀新庄地頭職を禅林寺来迎院に寄進している。
 ここでとりあげるのは、正和元年(一三一二)七月七日六波羅下知状にみえる前領家能登前司尚経である。編纂所データベースで検索しても関係史料はみあたらず、尊卑分脈で「尚経」を調べても該当する人物はいない。残るは「能登前司」であるが、「国司一覧」には延慶二年(一三〇九)一二月一七日御方違行幸御共奏雑事に「元能登守尚経」がみえるとある。前述の下知状には、前領家尚経の時に雑掌と地頭が相論を行い、永仁三年(一二九五)一二月に六波羅下知状が出されたことが記されている。尚経の姓は不明だが、能登守であったのは永仁三年以前であったことになる。
 尚経が御共をしたのは持明院統の花園天皇の方違行幸である。淀庄は大覚寺統の庄園であるが、尚経は両方との関係を有していた。正和元年の時点でも能登前司と呼ばれており、一度のみ国守となり、その後は~前司と呼ばれる、実務系の公家であろう(領家や目代を兼任)。亀山院のもとで淀本庄領家の地位を得たが、後宇多院への代替わりにより、別の人物が領家に補任され、その雑掌が地頭中沢氏を訴え、中沢氏の補任権は幕府ではなく領家にあることを主張したのであろうが、第三者的にみればあまりに無理な主張であった。
 とりあえずは、淀庄が八条院領に編入される前は高松院領ではなかったかという点と、領家であった某尚経の性格について述べた。以前、出雲大社領の領家について、三位以上=公卿であることがその資格として重要であるとの説を知り、有名な肥後国鹿子木庄の領家願西が微力なため国衙の乱妨を防げないとして高陽院内親王(鳥羽院と美福門院の間に生まれた長女で、高陽院泰子の養女となった)に寄進したことを思い出したが、実例をみると、公卿でない領家は鎌倉時代にはそれほど珍しくはないことを知った。尚経の場合も亀山院という後ろ盾のもとで、実務の専門家として領家になり、その死後は持明院統の花園天皇との関係を強めた。

2019年11月28日 (木)

松江市域の所領と地頭から

 『松江市史』通史編2中世の第一章七四頁に標題の表が掲載されている。当方は第二章を担当したが、当然、校正段階では他の章の確認も行った。それが十分でなかった点は多々ある。この表について、気になる点を遅ればせながら指摘しておきたい。
 最初にこの表を確認しようと思ったのは、古代編七六一頁の比叡山領三津御厨の記述を読んだためである、鹿島町御津に比定されてきたが、根拠は十分ではない。何よりも文永八年には三津庄がみえ、地頭は朝山右衛門尉(昌綱)跡であった。表では通説に基づき、島根郡に三津庄と朝山昌綱跡が記されているが、『島根県の地名』の出雲市(旧平田市分)三津浦の項には文永八年の三津庄であるとの記述がある。三津庄が島根郡ではなく、楯縫郡内の庄園である事は、地頭が朝山昌綱跡であることから明白である。楯縫郡には昌綱跡の所領として三津浦の南に隣接する楯縫東郷と楯縫西郷がある。比叡山との関係では楯縫郡に隣接する出雲郡内に出雲国最大の寺院である天台宗鰐淵寺があり、一〇世紀後半の三津御厨も楯縫郡である可能性が大きい。伯耆国には御厨が多いが、出雲国に文永八年の時点で御厨は一つもみえないのはなぜであろうか。
 表には意宇郡乃木保・乃白郷・日吉末社の地頭がいずれも乃木太郎兵衛尉(泰高ヵ)とあるが、乃木保は乃木七郎(景家)の誤りである。また乃木氏の出身地が出雲国とあるが、初代高綱は近江佐々木庄を本拠とする佐々木秀義の四男であり、「近江国」とすべきであろう。あと、すでに述べたように、秋鹿郡伊野郷地頭持明院殿は後深草院ではなく、当時の史料を確認すると室町院である。当方が一九八二年の論文で初めて後深草院説を提示したが、基礎知識が広がる中で自説に疑問を持ち、再検討した結果であった。大野庄地頭については大野一族とあるが、一部は土屋氏領であった。土屋氏が婚姻関係で大野氏から得た可能性は低い。土屋氏領は大野庄内東方内であるが、獲得した時期が治承・寿永の乱後か、承久の乱後かについては決め手を欠く。大野庄の東にある秋鹿郷と西隣の伊野郷はいずれも在庁官人No2の中原朝臣領であったのが、承久の乱で没収され、土屋氏と守護佐々木氏領となっており、後者の可能性が大きい。時期を特定する史料を欠いているが、佐々木泰清の代に伊野郷地頭職を持明院に寄進した可能性が大きい。これが後に秋鹿郡内でより面積の広い古曽志郷に変更された。いずれの場合も、実際の支配は守護関係者が主導権を握っていた。

2019年11月27日 (水)

島根郡家の位置について

 本庄公民館で話をするため『出雲国風土記』の記述を確認したが、その中で、古代の郷の範囲について地図が作成されている(角川版『歴史地名辞典 島根』など)が、その根拠となる情報は『風土記』には記されていないことを知り驚かされた。一方、郡家の位置については、郡内の各地との距離と方向が記されているので、コンパスを使ってその交点となる場所を求めることができる。ただし、方位については正東・正西・正南・正北とその中間となる東北・北西・東南・南西の八種類しかなく、その決め方もおおざっぱな感じである。
 以前、『島根県の歴史散歩』の松江市分を担当した際に、福原町芝原が島根郡家所在地の候補となっていることを記したが、どうみても『風土記』の記載と矛盾しており、これは平安期のものかなと思ったが、『松江市史』通史編1で確認すると、芝原付近説と東持田町納佐付近説が記されていた。後者は『風土記』研究者加藤義成氏が唱えているようだが、これも郡内各郷への方位と距離からすると100%成り立たない。方位にはかなりの遊び(ズレ)があり、それを踏まえてコンパス的作業をすると、現在の島根大学北側付近となるのに、なぜなのかと不思議に思った。この説なら遊びを補正すれば矛盾がない。歴史学の研究者(文献・考古学とも)に数学的センスがない人が多いことを示すものである。法吉郷家が島根郡家の正西二三〇歩(律令制では一里=300歩=約533m)とあることから、二つの説がありえないことは明白である。本庄にある手染郷家(手角町ではなく現在の上本庄=内陸部であろう)は郡家の正東一〇里二六四歩、美保郷家が正東二七里一六四にあるのである。
 『市史』では秋鹿郡家について東長江町郡崎説が江戸時代以来の通説だが、遺跡は発見されていないとし、風土記の「秋鹿社」の南に郡家があるとの記載について、これを現在の秋鹿町の秋鹿神社とみるか、『雲陽誌」東長江の姫二所大明神とみるかで意見が分かれているとしている。後者が加藤義成氏の説だというが、神社は中世、近世と名称だけでなく場所も移動しており、途中で絶えた例も珍しくない。風土記時代の神社の所在地の客観的比定は不可能である。とりあえず、コンパス的作業をしてみるしかないが、その結果は秋鹿郡家は東長江の宍道湖沿いの場所にしかならない。『風土記』の方位は全てではないが、現在の方位と四五度程度ずれていることが多い。恵曇が郡家の東北九里四〇歩とあるが、実際は現在の方位でいうと北になる。

 

2019年11月24日 (日)

康治二年の官宣旨と太政官符

 出雲国に関する表題の二通の政府文書から、抽出すべき情報は何かについて、以下で述べたい。
 三月一九日の官宣旨は、出雲守藤原光隆からの解状をうけて出されたものである。保延四年(一一三八)末に出雲守源光隆と安芸守藤原光隆が相博した。これに伴い、待賢門院分国は出雲国から安芸国に遷ったが、その背景として、出雲大社造営が現実の問題となったことがあった。源光隆は女院関係の寺院・御所の造営を担っていたため、出雲大社造営との両立は困難であり、有力な院近臣清隆を父に持つ一二才の藤原光隆が出雲守となった。造営に向けての準備はしていたであろうが、三年目の保延七年六月に神殿が倒壊し、待ったなしで造営事業に取り組まなければなくなった。ところが、光隆の解状が引用する在庁官人解状が主張するように、不輸権を持つ庄園の立庄や雑役を免除された加納が次々と認められ、公領だけでなく庄園にも造営役を負担させることが困難となっていた。前回の天永三年(一一一二)の遷宮事業時は世上復興(一度は荒廃した公領の復興が進んでいた)時であったのに対して「国中衰微之今」だとしている。このままだと増加した庄園が国務に従わず、材木を拒捍する事態となり、造営は進まないというのである。庄園・公領を問わず事業に協力するのは、康平五年(一〇六二)や天仁三年(一一一〇)の例で明らかであると正当性を主張している。康平五年と天仁三年は仮殿造営が終わり、正殿造営が開始された年であり、その時点で政府から命令が出されていたのだろう。天仁三年には不足する造営のための材木が因幡国等からもたらされ、ストップしていた事業が再開され、三年で正殿造営が完了したことも述べている。
 国守光隆と在庁官人は大社造営では共通の利害に立っていたが、庄園への対応は両者の間に差があった。光隆の父清隆は院近臣であるがゆえに院の御願寺に対する庄園の寄進と立券を容認した。康治二年(一一四三)八月一九日の太政官符では鳥羽院が建立した安楽寿院とその庄園に対する官使と国使による干渉が禁止されており、その末社として上総国二宮橘木社とともに、佐陀社が挙げられている。両社は領知する輩が後代の妨げを断つため、所領を鳥羽院庁に寄進したとしている。橘木社は保延七年(一一四一)時点では鳥羽院の中宮であった待賢門院庁の判官代であった藤原通憲(信西入道)が鳥羽院に寄進し、院使が派遣され、立券が行われようとしたが、在庁官人と隣接する庄園から四至牓示石の設置をめぐって異論が出され、作業が中断する中、院使は都に帰ってしまった。上総守(親王任国であるため実際には介)と在庁官人は鳥羽院への寄進であろうと、庄園の立券には抵抗したのである。大社本殿が顛倒した同じ年であるが、出雲守光隆と知行国主清隆は庄園の立券に協力的であり、在庁官人とは利害を異にしていた。鎌倉初期の佐陀社領家円雅は花山院兼雅の子であるが、兼雅の父忠雅は幼少時に父が死亡したため、母の兄弟で鳥羽院近臣筆頭となった藤原家成らと一緒に育っている。佐陀社の寄進・立券に保延七年当時三五才であった右衛門督家成が関与していた可能性が高い。出雲守の源光隆の時代には長海庄が待賢門院の御願寺円勝寺に寄進・立券され、藤原基隆の子経隆か、その前任である藤原為隆の子憲方が出雲守であった時期には神門郡園山庄が成立したと思われる。
 仮殿造営に対する国内の協力状況から在庁官人が国守光隆に対して解状を提出し、父清隆とともに大社造営を期待されていた光隆は政府に解状を提出し、その結果出されたのが、康治二年三月の官宣旨であり、久安元年(一一四五)一一月二五日には正殿遷宮が完了した。翌年末に光隆は元出雲守であった経隆と相博して但馬守に遷任した。庄園の寄進・立券にたいする姿勢は経隆も同じであり、彼の在任中に出雲大社領が崇德院庁に寄進・立券されたと思われる。

 

本庄と新庄

 出雲国で、本庄と新庄に分かれているのは能義郡富田庄、島根郡長海庄、大原郡淀庄、楯縫郡万田庄、神門郡園山庄である。園山庄は成立時期の明証を欠くが、出雲国内のこれらの庄園は、一二世紀前半に寄進・立券が行われ、後に本庄と新庄に分かれたものであろう。立券時に不輸権を認められた中核部分が後に本庄になり、当座は雑役のみ免除された周辺部分が新庄となった。巨大庄園群の代表である八条院領はこの時期に集積された。保元の乱後の新制により、このような手法は禁止され、一定の中断期間を経て、後白河院が自らの経済基盤を強化するため、持仏堂を建立し、そこに庄園を集積したことにより再開された。巨大庄園群長講堂領は八条院領よりも遅れて形成された。
 これに対して、安楽寿院領佐陀社、成勝寺領揖屋社・飯石社、八条院庁分領大原庄、歓喜光院領来海庄(独立した庄園とはならなかったが、永享一一年痰氏碧彦二郎・弥三郎連署寄進・譲状には来海庄新庄分とある)、崇德院庁分領杵築社も保元新制以前=一二世紀前半の成立であるが、本新庄には分かれていない。この違いはどこにあるのだろうか。杵築社領は国司と関係者(国造、在庁官人)の寄進地をまとめたものが寄進されたもので、すでにある枠組みがそのまま継続している。大原庄は大東庄の別称と考えられるが、ここも南・北や飯田・縁所という公領がそのまま寄進・立券された形である。文永八年の地頭もその区分に基づき五人いた。北分がさらに二分割された形である。佐陀庄は定田数二八〇町の出雲国最大の庄園であるが、その割には島根郡と秋鹿郡にまたがる庄域は広くない。富田庄は本新庄併せて一三〇町であるが、佐陀庄の倍以上の庄域を持っている。来海庄は一〇〇町であるが、これも庄域は現在の松江市宍道町来待に相当し、広くはない。揖屋社と飯石社は神社の周辺地域が庄域で、田数はそれぞれ三一町余と一四町余である。淀庄は本新庄併せて三五町であるが、その庄域は雲南市大東町新庄から松江市との境にまで及んでいる。
 以上の庄園は不輸権を得た後に不入権を認められている。その後は国衙の検田使も庄内に立ち入ることができず、田数は固定化している。一般的には立券時の田数がそのまま使われ、文永八年の田数も同様である。一二世紀前半に成立した庄園には二つの類型があり、すでに中世的公領としての枠組みがある複数の所領が寄進・立券された事例と、広大な周辺地域を囲い込んで寄進・立券された事例とではその後の展開に差があり、後者が、本庄から独立して新庄が生まれている。前に佐陀社と上総国橘木社への国司の対応の違いを例に、後者のケースを認めるがどうかは、寄進先が誰か以上に、国司が誰かによっていた。院近臣が国司(知行国主)であれば認められやすく、実務官僚が国司であれば、在庁官人の反対もあってこれを認めなかった。石井進氏が能登国の例から、鳥羽院政期に庄園の寄進・成立が多いことを論証したが、その大半は持明院通基の嫡子通重が能登守であった時期で、田数五〇〇町の摂関家領若山庄のように巨大庄園が相次いで立券されたため、田数では鳥羽院政期が七四%を占めていた。ただし規模が小さいが、幕府成立後(後白河院政期)の事例が九あり(田数では一四%)、鳥羽院政期の八を上回っている。

2019年11月23日 (土)

伊秩庄は飯石郡内

Tyukinnsei 1271    

 神西庄の問題を考えたのは神門郡内で神西新庄の南にあったとされる伊秩庄について考えたため。『島根県の地名』「伊秩庄」の項では出雲市乙立町から佐田町一窪にかけての神戸川上流沿いの地域に比定されている。伊秩城は佐田町一窪田・栄の丘陵上に比定されている。問題は文永八年の地頭来嶋松助入道が飯石郡内の来嶋郷の地頭でもあることである。また、一窪田よりも神戸川下流にある反辺から分岐する須佐(波多)川流域の須佐郷は中世は飯石郡内であったとされている。これを踏まえると、伊秩庄は神門郡ではなく飯石郡内で、その領域は一窪田よりはるか南の志津見湖あたりまで広がり、そこで来嶋郷に接していたのではないか。佐田町一窪田、八幡原、反辺、東村、高津屋、大呂、上下橋波、吉野あたりがその庄域であり、伊秩城は三刀屋郷が飯石郡の南端に位置し大原郡と境を接していたのと同様に、飯石郡の南端に位置する一窪田内に築かれたのではないか。乙立については微妙だが、塩冶高貞の弟時綱が乙立を支配していたことからすると、塩冶郷内であった可能性もあるのではないか。
 文永八年の出雲国内の庄園公領の状況については、過去に『竹矢郷土史』や『出雲塩冶誌』の中で作成した表を掲載したが、その後、所在地が不明であった所領の場所が判明したこと等を反映させた最新のものを作成し、クリックして閲覧できるようにした。併せて、近世初頭と比較した表もアップした。公領と庄園の区分は、建長元年の大社遷宮注進状に基づいた。大原郡大東庄は公領に入れている。これを庄園に入れると、大原郡は能義郡以上に庄園の比率が高くなる。大東庄は宝治の正殿造営でも造営米を負担しており、どのような性格の所領であろうか。
  現在は、メガエッグのオプションを利用しており、HPの容量が限られているが、来年中には余裕のあるサイトにアップし、充実させたい。

 

神西本庄と新庄の領域

 神西庄は園山庄とも呼ばれ、吉田経房の日記『吉記』寿永二年八月四日条に「雲州園山庄」とみえるのが初見である。経房が死亡する前年の正治元年(一一九九)に四二才の嫡子定経が、従三位参議であったにもかかわらず出家したたため、経房は定経を儀絶し、嫡孫資経を後継者とした。経房は平範家の娘を正室とし、定経も範家の嫡子親範の娘を正室としていた。経房の死後は母方の祖父親範とその嫡子で資経の伯父である基親が資経を支えたであろう。
 文永八年には本庄と新庄に分かれており、本庄地頭が海瀬又太郎、新庄地頭が古庄四郎左衛門入道子であった。承久の乱で神西庄司太郎が渋谷又太郎によって討ち取られており、その跡が没収され、東国御家人が新恩地頭として入部していきた。乱の時点ですでに本庄と新庄に分かれていたと思われる。資経は承久の乱の直後の八月に蔵人頭となり、翌年には参議に補任されているように、後鳥羽院とは距離を置いていたが、出雲国が後鳥羽院の分国で、知行国主の源有雅と守護安達親長が京方となったため、神西庄司が動員されたであろう。
 問題は本庄と新庄の領域であるが、『島根県の地名』の「神西庄」の項では、延応元年八月一八日関東下知状(『鎌倉遺文』にならい、御教書としていうが誤りである)を根拠に、神門水海の南部から常楽寺にかけての地域が本庄で、本庄の西の神門水海周辺から現在の出雲市湖陵町・多岐町辺りまでが新庄としている。しかし、そうすると新庄地頭が入部し勧請したとされる神西八幡宮や十楽寺が本庄内となってしまう。長海本庄と新庄の領域が入り組んでいたのと同様の事態を想定する必要がある。神西庄の寄進・立券は一二世紀前半で、その時点で開発が先行し、不輸権を認められた地域が本庄となり、その周辺地域が新庄となった。本庄の領域は現在の神西駅周辺から知井宮との境にかけての地域と、江南駅周辺であったとおもわれる。後者については、永禄五年二月一九日尼子義久書下で神西三郎左衛門尉に安堵された所領の中に「本新庄之内三部」とあり、現在の三部に本庄分と新庄分があったことがわかる。
 貞応二年に本庄と新庄地頭が入部した際に本庄による新庄海山への自由妨があり、新庄が幕府へ訴え、守護所で両庄地頭と古老百姓に尋問した結果、本庄の領域には海山がないことが確認された。これは本庄内に全く海山がなかったという意味ではなく、紛争地帯となった江南駅周辺の本庄分と新庄分の境界付近の状況であった。それが世代交代後の延応元年には本庄と成(常)楽寺地頭が新庄に濫妨する事態となり、再度新庄が訴え、幕府が濫妨の停止を命じている。問題が発生したのは現在の三部と常楽寺の境界付近であり、貞応二年の紛争も同様であった。

2019年11月22日 (金)

勝部宿祢、神門系と大原系

 この点については過去にも述べたことがあるが、現段階の見解を以下で述べる。
 大伴氏系図(稲田家所蔵)は大原系勝部宿祢の系図であり、神門系や仁多系の情報はほとんど掲載されていない。両系の関係者が没落したからであろう。また、早くから出雲国で活動してきた勝部宿祢、出雲宿祢に対して、中原朝臣、藤原朝臣、平朝臣は遅れて出雲国に入り、治承・寿永の内乱や承久の乱で没落した宿祢系の人々に代わって出雲国衙内での地位を向上させた。建長元年六月日大社遷宮注進状に署名しているのは、勝部宿祢三名、藤原朝臣と平朝臣が各二名で、鎌倉初期に勝部宿祢に次ぐ勢力を持っていた出雲宿祢と中原朝臣は姿を消している。
 『延慶本平家物語』に元暦元年二月の一の谷合戦に参加したことがみえる、円屋(塩冶)大夫、多久七郎、朝山・木須幾(木次)・身白(三代)が一党、富田押領使、横田兵衛惟澄については、富田押領使を除けば勝部宿祢一族であろう(万田庄の項で多久氏を藤原姓としたが、修正する。当該部分も削除した)。塩冶、多久氏は神門系、横田氏は仁多系であろう。七名中には国衙の所在した意宇郡やその北側の島根郡の関係者がみえないが、因幡国からの参加者が記されていないように、出雲国からのこれ以外参加者があったのは確実である。これにより勝部宿祢一族中から没落するものがあり、これに代わって、中原朝臣が台頭した可能性が高い。朝山・木次・三代の三名は官職がなく、一党とはこの三人で、いずれも大原系勝部宿祢であったと思われる。一二世紀半ばの大社遷宮の記録により、大原系の祖となる勝部元宗は勝部宿祢一族惣領で神門系である孝盛とともに、五人の庁事に名を連ねている。序列は孝盛が一位、元宗は五位である。二位から四位までの人物はその名前と建久二年との対比から出雲宿祢一族と藤原朝臣一族の人物であろう。
 神門系とした多久七郎跡の多久郷には頼朝の側近中氏が地頭となったが(中氏は承久の乱後で、大原系に交替)、塩冶郷は勝部宿祢一族の政光が郷司の継承を認められた。建久二年と五年時点の勝部宿祢惣領資盛は出雲国東部の出雲郷等の郷司であった可能性が高い。序列一位の庁事資盛と在庁政光が神門系で、残る庁事四名は中原朝臣が二名(序列二位頼辰と三位時光)、藤原朝臣(四位孝季)、出雲宿祢(五位季成)が一名であった。建久五年時点の勝部宿祢一族のその他の在庁万田明元、法吉孝光、朝山惟元は大原系で、仁多系の人物はみられない。
 これが承久の乱後の建長元年には、筆頭の在国司朝山昌綱、庁事である万田明政、平田広政はいずれも大原郡系で、残りの庁事四名は藤原朝臣と平朝臣が各二名であった。神門系の所領であった塩冶郷は守護佐々木氏が地頭となり、出雲郷は多胡氏が地頭に補任されている。多胡氏は楯縫郡平田保と仁多郡馬来郷の地頭にも補任されているが、平田保は大原系の、馬来郷は仁多系勝部宿祢の所領であった。出雲郷に隣接する竹矢郷は得宗領となり、石清水八幡宮領平浜別宮は守護領となっている。出雲西部の中心所領である塩冶郷と朝山郷は乱以前はそれぞれ神門系と大原系勝部宿祢領であったが、守護領となった塩冶郷に対して、朝山郷は大原系の惣領惟綱が没落したのに対してその弟元綱が継承することを認められた。
 建保二年七月二五日神祇官下文により佐陀御領下司職に補任された勝部四郎丸について、過去に大原系としたり、そうでないとしたりしているが、その朝山惟元の子である惟綱と元綱が元久二年に右兵衛尉と右馬允に補任されており、四郎丸はその弟である後の長元であろう。ただし、前任者が没落したのではなく、養子に入るなりしての補任であった。

 

2019年11月21日 (木)

SSDの交換

 現在メイン機として利用しているデルXPS8930のSSDの残りが少なくなってきたので、交換することとした。もともとはM.2-2280型SSD256GBとHDD2TBの構成で、可能なものはHDDに保存するようにしていたが、ソフトをインストールし、ファイルをダウンロードする中でこころもとなくなってきた。まだ余裕があるうちにより大きな容量のものに交換することとした。過去には何度も行ってきてはいるが、近年の新たなPCとその内部部品に関する知識は十分ではないため、ネットで情報を集めたが、SDDの価格のメーカー差が大きい事を知った。サムスンの上位型が理想であるが、倍以上するとなると迷う。
 以前、クルーシアル製SDD1Gを購入したままPCの既存のものと交換せずにいたが、購入した際の評価は値段の割に悪くなかったので、当初は同メーカーのSATA1TBのものを注文した。アマゾンの評価平均は悪くはなかったが、中身をみると一年ほど前までのものしかなく、最近のものほど低評価であることを知り慌てた。なかなか出荷にならないこともあり、キャンセルしてシリコンパワー製のM.2-2280型512GBのものに変えて注文した。なぜ遅れたかは不明であるが、キャンセルは受け入れられ、すぐにシリコンパワー製のSDDが、外付けケースとUSB3.1(GEN2)とタイプCをつなぐケーブルとともに届いた。ケーブルはケースにも付属していた。  本日のところで、ギガバイトの関係者が容量の大きいADATA製SSDに、クローンを作成・交換しているYouTubeの映像を参照して行った。XPS8930のサービスマニュアルも参照して、ビデオカードGTX1060を外した上で、もとのものをまるごとコピーしたSSDに交換した。すると何事もなかったようにパソコンは起動した。空き容量が20%程度から70%に増加したため、余裕をもってPCが利用できる。もとのSSDは東芝製であったが、シリコンパワー製品もNANDフラッシュは東芝製を使用していた。外付けケースに入れて高速なUSBとして利用することとした。交換に要した費用は一万五千円ほどであった。YouTubeの画面では担当者が繰り返し、SSDの交換は自己責任で行ってほしいと述べていた。唯一問題となったのが、交換後、メールソフトShurikenで新規受信をしても、新たなメールはありませんと表示されることであった。これでは使えないので、一旦、バックアップを行った後、アンインストールし、再起動後、再インストールを行った。単なる上書きのインストールでは変化がなかったからである。再インストール後も前のメールが、表示され、バックアップを取り込む必要がなく、受信可能となった。とはいえ、アンインストール後、再起動なしに再インストールしてもダメであった。

2019年11月20日 (水)

林木庄と美談庄2

 美談庄についても、九条家との関わりをもつ人物により寄進された結果、女院領をへて九条家領となったものであろう。九条道家の姉で順徳天皇の中宮となった立子(1209入内、東一条院、仲恭母、宝治元年死亡)や孫娘で四条天皇に入内した彦子(宣仁門院、弘長二年死亡)をへて、九条家領となったのではないか。これ以降、鎌倉末期まで九条家から院号宣下を受けた女性はみえない。
 道家の子で幕府将軍となった頼経の失脚以降不遇であった道家流で、弘長元年には頼経の兄二条良実が関白に復帰し、以後、道家流(九条・二条・一条家)が摂関家の地位を確立している。建武三年八月二四日九条道教家領目録に「出雲国林木・美談両庄領家職」がみえるが、道教は、道家の嫡子で二五才で死亡した教実の曾孫にあたる。林木庄は宜秋門院の死後九条家領となったのに対して、美談庄は遅れて九条家領となったのであろう。また美談庄は承久の乱の結果、守護佐々木義清が地頭となり、子政義・泰清をへて、義重に継承されたと思われる。
 問題は寄進者が誰かであるが、美談庄の項でのべた藤原清長その人ではないか。清長は宜秋門院のもとで中宮大進であった建久八年一二月に出雲守藤原朝経が急死したのをうけて、朝経がつとめていた出雲守と後鳥羽天皇蔵人に補任された。父定長は吉田経房の異母弟で後白河院司ならびに近衛基通の政所別当をつとめていたが、清長は後鳥羽院、近衛家実ならびに九条兼実の次男良経の政所別当を務めている(元久2年8月摂政前太政大臣(九条良経〉家政所下文、香取神宮文書)。承元四年末に立子が入内し女御となり、翌年、順徳天皇中宮とされたが、この時点で寄進・立券がなされたと思われる。良経の子が立子ならびに道家である。美談庄は出雲守護領からはずれたため、林木庄と違い、地頭職が室町院領となることはなかった。
 林木庄の文永八年の地頭は深栖蔵人入道跡であったが、十三世紀末までに守護領となり、室町院に寄進された。これに関して、元応二年六月二五日関東下知状(小野家文書)で、土屋三郎左衛門尉忠時の息女平氏に「前林木女」との割注があることが注目される。林木庄地頭深栖氏と結婚したが、その後離婚したため、このように表現されたと解釈していたが、嫁ぎ先の深栖氏が林木庄地頭でなくなったために「前林木女」と記したのであろう。仮説ではあるが、美談庄については思いの外、成り立ちそうなものとなった。
 最後に、志々塚保内の田が鰐淵寺や塩冶八幡宮に料田として寄進され、地頭職が室町院の寄進された時点では、寛永年間のように、洪水の危険性は高くなかった可能性が高い。その後の流路変更により、環境が変わったと考えられる。

 

林木庄と美談庄1

 以前、一四世紀中頃に九条家が林木庄とともに領家職を有した美談庄について述べた。史料を欠いているため、推測に終始したが、今回は林木庄を併せて再度述べてみたい。
 林木庄は元久元年四月二三日九条兼実置文にその娘で後鳥羽天皇の中宮となった任子(宜秋門院)領としてみえるのが初見で、九条家家司でもあった藤原長兼の日記『三長記』の同年四月二四日条には、女院領林木庄下文を、兼実から与えられたことが記されている。林木庄について具体的に述べているのは『島根県の地名』(平凡社)の同庄の項で、井上寛司氏の執筆分である。当初の担当者が執筆されなかったための代役で、当方もその影響で、斐川町の大社領以外と飯石郡掛合町分ならびに、石見国長野庄分等が分担に付け加わった。
 そこでは林木庄について、本家皇室、領家九条家、預所九条家家司との理解が示されている。これに対して当ブログの「美談庄」では、長兼と出雲国の接点を検討した。元久元年四月一二日に長兼は左中弁兼蔵人頭に補任されており、長兼が宜秋門院に林木庄を寄進し、立券が行われた結果、領家に補任されたと考えたのである。この後、長兼は権中納言にまで昇進しており、その地位が預所ということは考えられない。
 井上氏は本家が皇室(十三世紀末の室町院領目録にもみえる)であるため、領家九条家・預所長兼とされたが、室町院領としてみえる林木庄は武家所進地頭職であり、領家分が九条家に相伝されたものである。室町院領目録には古曽志庄、母里庄、志々塚上方・下方もみえるが、すべて地頭職が守護佐々木氏から室町院に寄進されたものである。それを示すのは、文永八年に志々塚保地頭として持明院殿(室町院)がみえ、元応元年には古曽志郷が守護佐々木貞清領となっていること、守護領であった塩冶郷内の塩冶八幡宮に寄進された料田の中に、郷内所領とならんで、志々塚上分、林木東西がみえることである。文永八年には秋鹿郡伊野郷も持明院殿が地頭であった。これも守護から地頭職が寄進されたものであったが、それ以降に同郡内でより規模が大きい(二七町八反の秋鹿に対して六五町九反)古曽志郷が守護領となったことに伴い変えられたのではないか。いずれにせよ実権は守護が握っていたのである。これに対して南北朝期の林木・美談庄領家職は、地頭分と区分して呼ばれているものである。文永八年の美談庄地頭は守護泰清の長子義重であった。以上により、藤原長兼は預所ではなく領家であったことは明らかであろう。

 

2019年11月18日 (月)

斐伊川周辺の村々の状況2

 寛永末年頃洪水にあった美談村は、水害前の寛永三年の時点で本田数四〇町中、上田(一石六斗)が一一.四%、中田(一石四斗)を加えても三六.五%である。これが洪水後の正保四年では本田数四町三反三畝六歩中、上田(一石五斗)以上の割合は二九%でしかない。上鹿塚村は美談村ほどではないが、同様の状況である。寛永末の被害は明確ではないとした久木村の場合、正保四年の本田数二八四町四反中、一石六斗以上が三五.五%、一石四斗以上で六六%となる。神門郡の村々よりはやや低く、美談村、上鹿塚村よりは明らかに高い。
 文永八年時点では志々塚保(上下)が定田二〇町七反、福富保が二二町二反であった。このうち、下志々塚保と福富保は近世初頭には久木村に含まれていたと思われるが、洪水後の上鹿塚村の本田数は五町八反五畝であった。寛永三年は後半を欠くため、一〇町三反一畝以上であったことはわかるが、その内、上田の割合は二四%に留まっている。文永八年時点よりも近世初頭の上鹿塚村は水害の被害が受けやすくなっていたと思われる。以前述べたように、院政期までに斐伊川の本流は東流が中心となり、とりわけ南側が本流であったと思われるが、その後、しだいに北側の川の比重が高まっていた。これが美談、上鹿塚における水害被害の可能性を高めたと思われる。久木村の場合は東流路の東端であり、そこに来るまでの地点で堤防が決壊すれば、洪水の影響は弱まったはずである。
付記:実際に何年にどのような洪水があったのか今ひとつはっきりしない。『雲陽誌』には上鹿塚の一宮明神について、寛文一六年(一六三九)に建立(再興)したことと、正保二年(一六四五)に洪水が社殿に入って顛倒し、古記神宝悉く流出したと記されている。また、中世の下志々塚保は近世の中原村に含まれたと思われる。現在は上鹿塚と中原が合併して原鹿となっている。雲陽大数録では上鹿塚村一五〇石に対して中原村一一四〇石と大差であるが、上鹿塚で決壊することが多く、中原はあまり影響を受けなかったのだろう。上鹿塚と美談が川を挟んで対面している場所で決壊したのであろう。現在ではまさにここでカーブしている。
 

斐伊川周辺の村々の状況1

 中世の神門郡常松保は、文永八年(一二七一)時点で定田一二町七反三百歩の公領であった。一六世紀には遙堪郷、朝山郷と境を接していた。鎌倉末の時点では鰐淵寺が大社宝前で行う供養の料田一町二反があった。そのため、常松保住人は鰐淵寺の許可を得て寺山に入ることができたが、一六世紀世紀半ばには、無許可で山を切り荒らす事態が発生し、鰐淵寺の訴えを受けた尼子氏奉行人が、高浜、林木、遙堪、常松や隣接する郷の衆中に対して、このような行為に対しては処分することを伝えている。
 一方、近世常松村は元和七年(一六二一)の検地で田数一八町であり、自然環境の変化に伴う範囲の変更はあるが、常松保が常松村に移行したと考えてよかろう。検地帳には田の肩に「古川」と記したものが二二筆一町七反一畝十五歩あるが、一筆九歩が中田なのを除けば、上々田一六筆、上田五筆である。過去に川(本流ではなく、支流であろう)であったところが、洪水等により埋まり、それが田として開発されたものであろうが、かなりの時間が経過したことで、安定した耕地となっていた。常松村全体でも八割弱が中田(反別一石四升)以上であり、洪水等には見舞われにくい場所であったことがわかる。さすがに「古川」には畠はなく、すべて田であった。堀江村と粟津村を挟んで東側に位置する高浜村は中世の杵築大社領高浜郷に相当するが、近世中期に南側の里方村と北側の山方村に分かれ、さらに山方村が矢尾村と日下村に分かれた。慶長二〇年(一六一五)の高浜村検地帳によると田数一一九町三反九畝九歩で、これも一石五斗以上の田の割合が七割を超えている。
 里方村の南側に隣接する高岡村は中世塩冶郷に属していたが、開発の進展に伴い、守護佐々木泰清から子七郎宗泰に譲られ、その一流は高岡氏を称した。慶長七年の検地帳では田数五一町九反二畝二一歩で、一石五斗以上の田は五七%弱であるが、一石四斗以上にすると七八%となり、ここも安定した耕地となっていた。風土記の時代にはこの北側を斐伊川本流が流れていたと思われるが、それが縮小ないしは埋まってかなりの時間が経っていることになる。次いで寛文九年には田数は一〇町以上増加して開発が進んだが、一石五斗以上の田の面積は半減している。一石四斗の区分はなく、一石三斗以上の割合も五〇%弱である。現在に近い地点を流れる本流から東へ流す流路が設けられる中で、高岡村における水害発生率は高まり、実際に起きたと思われる。

2019年11月16日 (土)

美談村と上鹿塚村の違い

 寛永三年美談村本田畠検地帳によると、惣田数四〇町二畝二四歩、四六五石五斗二升五合、惣畠数一七町九反二畝六歩、九八石二斗二合である。新田畠検地帳では、惣田数七町九反五畝一五歩、惣畠数六町四反五畝三歩であるが、田では上田・中田がなく、畠では上畠はみられない。これが洪水後の正保四年本田畠検地帳では惣田数四町三反三畝六歩、五五石四斗八合、惣畠数三町五反三畝二一歩、二三石四斗五升。新田畠検地帳は残っていない。洪水により本田畠と新田畠の区別が一時的に無効となった可能性もあるが、同じく洪水被害の大きかった上鹿塚村では正保四年の新田畠検地帳は作成されている。
 本田畠の石高で比較すると、本田は寛永三年の一二%、本畠は五六%に減少している。このデータは検地帳の末尾の集計部分をみればわかるが、とりあえず、減少した正保四年検地帳も一枚(頁)ずつ繰ってみた。枚数としてはそこそこあり、田は何故一二%に減ったのかという印象を受けた。田の筆数はそこそこあるが、一筆の田の面積がとにかく小さいのである。元禄郷帳によると寛文四年の美談村本田は八六〇石余、新田は一〇石余であり寛永三年よりかなり多くなっている。その後は大きな被害が少なく、急速に回復したのであろうか。正保四年の本田は田数は少ないが、上々田、上田が占める割合は二九%である。寛永三年の本田では上々田はなく、上田の割合が一一%である。条件の良い田の方が洪水の影響を受けにくかったのだろうか。
 正保四年の上鹿塚では、上々田はなく上田の割合が七%弱に過ぎずない。寛永三年の検地帳は途中までしかのこっていないが、集計すると上田が二町五反確認できる。これが正保四年の本田は三反九畝にすぎない。条件の良し悪しに関係なく被害を受けたのであろうか。同じく被害を受けた美談と上鹿塚でも状況は異なっている。元禄郷帳による寛文四年のデータは本田一〇九石余、新田八六石余と、美談村がほとんど本田であったのに対して、上鹿塚では新田が四四%を占めている。

2019年11月15日 (金)

斐伊川東流の実態

 松江市史編纂室から斐伊川の東流について、中世の情報を整理するよう依頼をされているが、その一方で、近世史の研究が不足していることを痛感する。検地が行われる背景としては、各郡を順番に行い、その対象となった場合や、新たな方針が打ち出されたことに伴うものとともに、洪水で耕地に大きな変化があったこと等が考えられる。寛永年間後半の洪水でどこが被害を受けたかを確定するために、検地帳のリスト「出雲国検地帳目録」(広大所蔵のものを後藤陽一氏が中心となりまとめる)で確認すると、正保四年の検地帳が出東郡(後に出雲郡)と楯縫郡に集中していることがわかる。当時神門郡に属した出西村もあるが、これは斐伊川東岸である。これに対して、西岸の神門郡の村々の検地帳は一部を除きみられない。島根郡の国屋村と菅田村にも正保四年の検地帳があるが、同郡ではこれだけである。
 楯縫郡には多久郷久木村のように、現在の斐伊川の南岸におおきく張り出した所領があった。当該村の中には寛永三年の検地帳が残っているものもあり、これと対比することで、洪水の影響がより明確になる。実際の検地帳の記載から、洪水により大きな被害を受けたことがわかるのは、出東郡美談村(合併前は平田市)と上鹿塚村である。美談村の地は中世は九条家領美談庄内であったが、文永八年の地頭は出雲守護佐々木泰清の長子義重であり、守護領となっていた。上鹿塚は中世の志々塚保内であるが、同保も文永八年までに守護領となった上で室町院に寄進されており、一四世紀初めにはその一町が鰐淵寺南院薬師料田として寄進されていた。文永八年の地頭は『持明院殿』となっているが、これは守護が地頭職を寄進し、持明院=室町院が得分を得ていたことを意味しており、実権は守護が握っていた。その後、志々塚保は上下に分かれる(一四世紀後半には志々塚上分内五反が守護から塩冶八幡宮に寄進されていたことが確認される。ここからも室町院ではなく守護が実際の権限を持っていたことがわかる)が、近世の村の中に下鹿塚村はみられない。寛永一〇年と一五年に比定されている国絵図をみると、美談村もまたその領域が現在の斐伊川の南側に及んでいた。
 両方の村とも寛永三年と比べると、田畠は半分以下、畠は四分の一以下となっている(寛永三年の上鹿塚村検地帳は後半部分が残っておらず、推定を含むので以上の表現だが、実際にはもっと減少した可能性が高い)。田畠とも等級が高い部分が激減してもいる。これに比べて、美談村の西側に隣接した今在家村、東側の西代村、上鹿塚村の東側に隣接した久木村では洪水による明白な被害がみられない(正保四年のみで、寛永三年のデータが残っていないので、このような表現)。以上の地域は出東郡北側にあるが、南側の出西村、氷室村、神守村)も洪水による明白な被害はみられない。以上の点から、寛永年間後半の水害では美談村と上鹿塚村内で堤防が決壊したと断定してよい。当然、ここを斐伊川本流が流れていたためであり、水害後に東流したという野津左馬助氏以来の説が成り立たないのは明白である。上鹿塚村には元禄一〇年の古川分の検地帳も残っており、川違えで埋まった部分が耕地となっていたことがわかる。また、検地帳をみると平田で川違えがあった享保年間後半に上鹿塚内でも川違えがあったことがわかる。東流により洪水の被害が解決したわけではなかった。中世の斐伊川の問題を考えるため、近世の状況を検討した。

2019年11月13日 (水)

新阿弥陀寺から観音寺へ

 新阿弥陀寺とは正和年中に平濱八幡宮領内田屋に建立された寺院である。開山である教智上人は同領内の宝光寺の開山でもある。後者が真言宗であるため、新阿弥陀寺も同宗寺院となる。宝光寺は八幡宮北側の丘陵上(現竹矢小学校)に開かれたのみ対して、新阿弥陀寺は大橋川北岸の平地に開かれた。檀那原入道覚円(本堂)と見性尼(禅尼堂)がどのような人物かは不明である。宝光寺の初見史料は貞和四年一〇月八日出雲守護代吉田厳覚書下で、下見谷宝光寺の敷地が安堵されている。これ以前の史料は後に流入したもので、当該時期の宝光寺には無関係である。
 問題は新阿弥陀寺の敷地が大塩(潮)が満ちて、正平年間に移動し、観音寺と号したことである。海面の上昇を示すものであるが、一四世紀半ばの海面上昇は確認されておらず、洪水による一時的な災害により移転したと考えざるを得ない。斐伊川が東流するようになって宍道湖東岸の松江地域が水害に見舞われる可能性が高くなったとされるが、この事例も東流を裏付ける材料の一つとなりうる。
 洪水等により場所が移転したとの情報は、寺社に関してより残りやすい。信頼性を検討しつつ利用しなければならないが、その収集が求められる。風土記時代の斐伊川本流沿いにあたる出雲市高浜(矢尾)の八幡宮は、永禄一二年秋の洪水で背後の北山が崩れ社殿が壊れたため、元亀二年八月に現在地に移転したとされるが、一方では鳴滝付近にあったのが「午の洪水」で社殿が流出し、東方二町二〇間の場所に再興されたとある(高浜八幡宮由緒書)。両者は同じことを述べていると思われるが、午=永禄一三年であり、一年のズレがある。現在は棟札そのものは残っていないが、『雲陽誌』「矢尾」には八幡宮の元亀年間(由緒書は同二年とする)の棟札があると記されている。恐らく「午」が正しく、永禄一三年(一五七〇)秋の水害で流された社殿が翌元亀二年(一五七一)に移転して再興されたのだろう。斐伊川周辺で洪水があったことを示す史料である。

2019年11月10日 (日)

島根郡北野末社の成立

 文永八年出雲大社三月会頭役結番帳の一番舞にみえる北野末社が、島根郡内大芦であることはすでに述べたとおりである。当時の地頭は東国御家人であろう香木三郎入道であったが、南北朝期には加賀庄地頭土屋氏の一族が後醍醐天皇から恩賞として与えられ、大芦氏を名乗っていた。一方、観応元年の曼殊院門跡所領目録に北野天満宮領として、出雲国天満宮とみえるのが北野末社であろう。大芦の天神は戦国期には存在したことが確認できるが、一二世紀後半に蓮華王院に寄進され成立した加賀庄に含まれていないことから、これに先行して寄進・立券されたことは確実である。
 では大芦を北野天満宮に寄進し、領家となったのは誰であろうか。天永元年(一一一〇)一〇月に能登守藤原基頼が能登国菅原保を天満宮に寄進し、観応元年の目録にも同国菅原庄がみえていることが注目される。基頼は右大臣俊家の子であったが、異母弟宗俊と宗通と違って公卿になることはなく、陸奥・越前・能登・常陸の受領を歴任し、康和六年(一一〇四)には陸奥守と鎮守府将軍を兼ねていた。
 その子通基は基頼五〇才時の子であったため、叔父である権大納言宗通のもとで育ったと思われる。宗通は基頼より三一才年少であり、通基は宗通の子たちよりやや年上であった。宗通は元永元年(一一一八)に鳥羽天皇中宮璋子の中宮大夫となり、基頼の娘能子は中宮璋子の典侍として、翌二年五月に顕仁(崇德)が誕生した際の御湯殿の儀式では清めるための散米を行っている。通基は大治二年正月には武蔵守見任が確認され、同年一〇月には鳥羽天皇への昇殿を認められ、一二月には宗通の養子時通に代わって因幡守に遷任している。通基は長承三年に藤原(西園寺)公通と相博して丹波守に遷任したが、因幡国は丹波国に引き続き女院の分国であった(通基については訂正)。久安元年には公通と通基娘の間に嫡子となる実宗が誕生している。
 一方、出雲国も大治五年一〇月に源能俊の晩年の子光隆が九才で国守に補任され、保延四年末に安芸守に遷任するまで待賢門院分国とされた。観応元年の天満宮領目録には、能登国菅原庄、出雲国天満宮(北野末社)とならんで、丹波国木崎庄以下四箇所と因幡国今衣社(鳥取市国府町)がみえているが、これも通基が両国守を務めた影響であろう。
 以上の事から、大芦が北野天満宮に寄進されたのは、源光隆が出雲守であった時期で、寄進し領家となったのは藤原通基であった可能性が高い。

 

2019年11月 3日 (日)

史料の残り方3

 寛文一二年検地帳には、安永四年分のように貼り紙があったことを示す記述はみられないが、その背景は不明である。安永四年の検地帳は写真撮影時から『本庄』が記す上分のみではなく、村全体のものである気がしたが、確認すると実際にそうであった。おそらく『本庄』の担当者は検地帳の末尾の部分のみ確認してあのような記述をしたのだろう。上分の畑方の集計分は末尾にあるが、田方の集計分は上方の田の末尾に記され、次いで下方の田の記載がはじまる。個々の畑(畠)に関する記載は欠落している。大部となるため別冊とされたのかもしれない。下分の田方の集計部分に続いて、上方と下方の畑方の集計部分が記されている。また、本来は末尾に記される御役御免屋敷と御役屋敷の部分も含まれていない。
 寛文一二年検地帳で御免屋敷とされた寺は昌水寺、大通寺と念仏堂、海倉寺大日堂、阿弥陀堂であるが、なぜか田の名請人として度々登場する玉理寺がみえない。玉理寺は大通寺と同様真言宗寺院で、村の鎮守である熊野神社の西側にみえる「寺中」の地にあったと思われるが、後に内陸部の山﨑の地に移転し、次いで廃寺となり、仏具などは大通寺に移されたとされている。現物は確認していないが、『本庄』にその一部が引用された玉理寺縁起の記述は概ね信頼がおけるものであると思った。この玉理寺は安永四年の検地帳にも名請人としてみえるが、その一部は名請人が変わったため貼り紙がされている。一方、名請人として「普賢寺」が頻出している。本庄地域の寺院ではなく、上東川津村中組にあった普賢寺と同一であると思われる。ただし、普賢寺は『雲陽誌』や文久二年輪切帳にはみえず、曹洞宗寺院本覚寺に隣接した場所に字名が残っているのみである。
 今回は、中世の本庄地域を考えるデータを得るために、検地帳や切図をみた。館跡や城跡に関するものはあっても、『城館分布調査報告書』には反映されていない。他の人が行った作業を検証すると、論証の精度の低さと守備範囲の狭さが大変気になる。松江市史についてもこれだけでは活用ができない事を述べた。これを踏まえた二の矢がないと、ほとんど活用されないままとなる。これまでの市史編纂でも終了時の対応が不十分であったため、せっかく集めた資料が失われたことも数多くの例があった。文書の活字化が行われ、全国の研究者が利用できるようになるとは言われるが、現在は研究者の数が急速に減少し、それとともに質も低下している。市史そのものは貴重な成果だが、これだけでは誰も利用・活用できない。これが現実である。古墳のみを調べても、城郭のみを調べても、ないよりはましな程度であり、何にもならないことを研究者は自覚すべきである。誇大広告の好きな人はいくらでも妄想を膨らませるかもしれないが、無意味である。
補足:普賢寺については、亥(文政一〇年)九月島根郡上宇部尾村宝林寺懸持本庄村普賢寺手請返答書があり(松江藩郡奉行文書213)、内容は未確認だが、普賢寺は本庄の寺であるが、当時は宝林寺住職が掛け持ちしていたことがわかる。宝林寺と同じ曹洞宗寺院であったと思われる。ただし、本庄の前に上東川津村にあった可能性は否定されたわけではない。

史料の残り方2

 本庄村の検地帳としては旧島根県史編纂時には「寛文一二年本庄村検地帳」が写されているが、残念ながら個々の耕地については特徴的な部分のみの抄本にとどまっている。とはいえ、集計部分は安永四年との比較に利用できる。その謄写本の末尾には「大正三年三月十八日」に「本庄邨役場所蔵之原本」により写したとしているが、原本は現在は残っていない。安永四年本より寛永一二年本が古いため、こちらを写したと思われる。長海村、手角村の検地帳の末尾にも同じ記載があり、なぜ、他の村の検地帳が本庄村役場にあったのか不思議であったが、歴史を確認すると、大日本帝国憲法が制定された一八八九年には市制・町村制が施行され、松江市が誕生しているが、その際に、従来の大区・小区時代以来の村々のグループの再編も行われていた。一八八四年の区長村会制改正により、当該地域は長海村を中心とする北部(森山村まで)と本庄町を中心とする南部(上宇部尾村まで)に分けられたが、一八八九年には下宇部尾村を含む「森山村」と手角村から上宇部尾村までの「本庄村」に再編された。本庄村役場は本庄町西側の大通寺の場所にあったとされる。そのため、関係する村の所蔵文書の一部ないし全部が本庄村役場に移されたのであろう。下宇部尾村が戦後の町村合併で美保関町となったのはこのためであった。
 寛永一二年本庄村検地帳には耕地の名請人として「寿庵」なる人物がみえ、地銭帳の「寿庵」と同一人物で、且つ、これが医師であると思われる。医師も御役御免屋敷を認められた公的存在であった。本庄村の御役御免屋敷にはお寺、御堂、下郡(一反歩)、庄屋(一反歩)、神主(四畝歩)、山廻(三畝歩)、役人(三畝歩)等とともに瓦焼三名分がみえ、その面積は下郡・庄屋に次ぐ六畝歩である。切図に「土取場」とあるのは瓦の原料となる粘土を取る場所であったのだろう。『切図』によると熊野神社下の道沿いに代宮(神主)家、蔵床があり、その道を挟んだ反対側に下郡屋敷があった。町(目代を補佐する年寄宅は四畝歩で御役御免屋敷)とは異なり、庄屋の補佐役である三名の年寄宅は他の百姓と同様御役屋敷でその面積は五畝歩であった。百姓屋敷は三畝歩であるが、すべて三名の名前が記されており、一人当たりは一畝であった。検地帳と地銭帳の末尾には岸崎佐久治とともに、中嶋長大夫、芝山半四郎、小池市郎左衛門が署判を加えている。

史料の残り方1

  近世松江藩の検地帳の内、広島大学図書館所蔵分は松江藩に提出されたものが、明治以降、課税台帳の基礎資料として国税局のものとなり、その後、広大に移管されたものである。これに対して、村の庄屋に残された検地帳は、次の検地帳作成までは基本台帳として、変更があるたびに追加情報を記した紙が張られている。今回は安永四年の本庄村検地帳の写真撮影を行ったが、記された字名がメインであったため、個人名に張られた貼り紙の確認は今後の課題とした。本庄地域の検地帳については『郷土誌 ふるさと本庄』(以下では『本庄』と略記)の中で、広大分(県立図書館に写真あり)と公民館所蔵分が、本庄町の地銭帳とともに紹介されている。広大分には本庄村のものがなかったことと、地銭帳が寛永一二年のものであるとあったので調査した。広大分の地銭帳は和田嘉宥氏による紹介と分析があるが、その中に本庄町のものは含まれて居らず、且つ、寛永一二年とは堀尾氏に代わって京極氏が入部した翌年であり、この時期のものは外には知られていないためであった。
 最初に地銭帳をみると「寛文十二年」(一六七二)の誤りであったことが分かった。末尾には貼り紙があり、「明治五年壬申開憎」と記されている。寛文年間なら松平氏の時代で、仁多郡横田町(同一〇年)、意宇郡湯町(同一一年)の地銭帳が残っている。寛文年間には出雲大社造営が行われる一方で、六年(一六六六)年の水害と流路変更で、旧富田城下町が河床下に埋没したことが知られている。出雲部の他地域でも同様の水害があったと思われ、居住地や耕地に大きな変化があり、それに伴い調査と台帳作成がおこなわれたと思われる。『本庄』では地銭帳を本庄上分(現在の上本庄町)のものとしており、驚ろかされたが、地銭帳には字等の位置を示す情報は記されていない。本庄地区の切図と併せて考えれば、やはり現在の本庄町と同じと考えざるを得ない。道を挟んで両側に町並みがあったと思われるが、それに関する記載もない。とりあえず、家ノ間口と奥行きに基づき復元図を作成したが、最初の「孫兵衛」から二七番目の「目代傳右衛門」までが一方で、二八番目「九朗右衛門」から五五番目「役人」までがもう一方であったと考えられる。家数五五軒中四軒が御役御免屋敷で、「六畝歩 目代」「四畝歩 年寄」「三畝歩 役人」「壱畝三歩 医師」であった。仮に前者を西町、後者を東町とすると、北側出口西側に「目代」があり、その対面である「九郎左衛門」が年寄であったことになる。面積上でも目代傳右衛門に次いで二番目であった。北側出口を西方向に左折した先に「大通寺」がある。南側出口の役人宅は他の御役屋敷と同じ「三畝歩」であるが、役人の業務については不明である。

 

 

近況11月初

 W坏は南アの三度目の優勝で幕をとじた。前にも述べたように、最近の強豪同士の試合は一試合毎に異なる結果が続いている。ラインアウトで南アが優位に立てばわからないと思っていたが、スクラムであれほどの差が出たのは予想外であった。ウェールズもあそこまでは押されなかった。これが開始直後にイングランドのプロップが味方とぶつかって交替した事が影響したかどうかはわからない。フォワード八人の総体重ではイングランドが二〇キロ上回っていたので意外であった。南アがエラスムスHCに交替してから二勝二敗との事で、イングランド側に情報が不足していたとは思われない。とはいえ、NZほど南アに慣れていなかったのは確かである。NZは今シーズンの南半球四ヶ国対抗で南アと引き分けた上で、W坏初戦を迎えていた。
 来年一月からトップリーグが再開されるが、W坏で活躍した選手が多く新規参入しており、レベルアップが期待できる。リストを見ると近年は南ア代表の若手の参入が目立つ。試合時期の違いから両立しやすいことがあるのだろう。指導者にも実績のある外国人HCが多い。神戸製鋼コベルコスティーラーズは二〇一四年に初の南ア人のギャリーゴールド氏をHCとしたが、契約の際に、南アからのオファーがあれば優先するとのことで、シャークスHCに転出し、一年でクッツエーHCに交替した。ゴールド氏は今大会はアメリカ代表HCであった。前HCミッチェル氏(元NZ代表HC)が南アのブルーズHCに転出したことをうけてのものであった。クッツエーHCも一年で南アに戻った。それはストーマーズHCとなった前日本代表ジョーンズHCが急遽イングランド代表HCとなったことによるものであった。クッツエー氏はその後、南ア代表HCとなったが、成績不振でエラスムスHCに交替した。神戸はオーストラリア人のマッケイHCを迎え、その二シーズン後に現在のスミス総監督、ディロンHCとなり、二〇一八年シーズンは優勝した。日本代表のデフェンスを担当したスコット・ハンセンACは、神戸のACからサンウルブスACを経て、プラムツリー氏のハリケーンズHC就任で、代表ACに迎えられた。次年度はNZに戻り、スーパーラグビー三連覇中のクルセイダースACとなるが、前述のスコット・ロバートソンHCがNZ代表HCになる可能性も残されているので流動的か。
 囲碁では若手と女流棋士の活躍が注目されているが、女流本因坊戦第二局を終えた二人は謝依旻六段とともに中国蘇州市での第10回穹窿山兵聖杯世界女子囲碁選手権に参加。藤沢女流本因坊は一、二回戦を勝利し、準決勝まで進んだが、中国の一七才周泓余五段に敗れた。とはいえ、日本勢のベスト四は初めてのこと。周五段は上野三段と同年齢であるが、今年の中国新人王戦では男性棋士を破って優勝している。決勝の相手韓国の崔精九段は二三才で女性棋士最強とされるが、本日の決勝戦の対局が注目される。一〇才の仲邑菫初段は対局毎に進化し、一〇月三一日の対高木二段戦の勝利で入段以来の公式戦の成績は九勝四敗となった。今月二三・二四日には予選を勝ち抜いた若手棋士一六名による広島アルミ坏があるが、女性棋士も前述の三トップ棋士に、予選で仲邑初段を破った宮本千春初段を加えた四名が参加する。予選は男女に分かれてのもので、女流枠が四であるが、そろそろ混合での予選とすべきであろう。女流の本戦参加はさらに増えるのではないか。ちなみに芝野名人は予選初戦で二才年下の伊了初段に敗れているが、同様にリーグ入りしている有力若手が予選で敗退している。

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