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2019年10月 6日 (日)

弁慶伝説の補足2

 枕木保を支配した東長田氏の没落と、華蔵寺の衰退も連動している可能性があり、これに対して、末次保と春日末社(法喜庄)の領家である臨済宗東福寺の影響が及び、そこから僧を招いて臨済宗寺院として再生したのであろう。南北朝期以降の長海本庄、新庄、ならびに枕木保、東西長田郷は守護関係者ならびに幕府領となった可能性が大きく、このことが康暦二年に諸山位に列せられた背景であろう。前年の康暦政変の結果、出雲守護は京極高秀から山名義幸に交替している。後の記録であるが「枕木山古日記」には弘元〔和ヵ=南朝年号〕・康禄〔暦〕・明徳年中に義幸の弟満幸が田畑〔畠〕を寄附したことが記されており、諸山昇格にも山名氏の後押しがあったと思われる。長海本新庄はこの時点では守護山名氏領であり、明徳の乱後は守護京極氏領となったと思われる。次いで戦国期は尼子氏領となり、塩冶興久の乱後、尼子氏から隠岐豊清に与えられたのであろう。
 中世の長海新庄が定田数五一町五反に対して、一七世紀中頃の新庄村と邑生村、上宇部尾村の田数を合計すると約七三町である。あるいはこれに現在の下宇部尾を含めた領域が長海新庄に相当する可能性がある。これに対して、手角村、長海村、本庄村(谷部分は除く)が本庄内であろうか。文永八年の一〇〇町余から一七世紀中頃には二〇〇町弱に田数が増加している。明治初年にはさらに増加して四〇〇町強である。
 近世における町と呼ばれたのは本庄町のみであるが、邑生村には立町という地名がみえ、海岸部から枕木山へのルート沿いにも町場的空間があったと思われるが、今後、具体的地名の場所の比定をしていきたい。
(補足)寛永年間のものである出雲・隠岐堀尾山城守家中給知帳には「在郷町家数」が記されているが、都市的空間であったはずの、秋鹿町、意東町、加茂町、庄原町とともに、本庄町もリストから漏れている。一方、本庄町には寛永一二年三月の地銭帳が残されている。原本は未見であるが、家数五五軒と記されているとのこと。給知帳でそれ以上の軒数であるのは、多い順に(HPの地図を参照)富田、杵築、今市、平田、美保関、三刀屋、赤穴、木次・横田・田儀の一〇ヵ町である。寛永一一年に堀尾氏から京極氏に藩主が交替しており、京極氏が作成した地銭帳であった。藩主が変わったことで扱いが変わったとの解釈も可能だが、給知帳そのものも実態とは違うように思われる。城下町松江に近い地域は、本来、規模が大きかったはずであるが、軒数が少なく、離れた地域の軒数が多いのである。リストになかった五町も松江に近い地域のみである。城下町建設により近隣の町から城下へ移転させられたこともあったであろうが、一方ではリストの数字は建前のものと考えられる。とはいえ、リストにない町は戦国期まではあった(戦国大名ではなく、町の間で決める)市日を、藩によって剥奪されたのではないか。近世後期に加茂町が市として認めるよう藩に訴えていた史料が想起される。公的には町でなくなったが、実態は町であった。また、リストにある町の軒数も、松江に近い町は数字を減らされたもので、実態は違っていたとすべきであろう。

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