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2019年10月 3日 (木)

万田庄と楯縫郡1

 楯縫郡の庄園万田庄は文永八年(一二七一)杵築大社三月会頭役結番帳では万田本庄(田数二〇町)と万田新庄(一六町四反二四〇歩)に分かれている。楯縫郡は勝部宿祢一族の中心的拠点の一つで、万田庄と三津庄(三町)を除けば全て公領で、その比率は八割を超えている。文永八年の地頭では、中二郎入道(多久郷)、平賀蔵人(佐香保)、多胡三郎兵衛尉(平田保)が東国御家人で、朝山右衛門尉跡(楯縫東郷・西郷、三津庄)、小境二郎(小境保)、玖潭四郎(玖潭社)、万田二郎太郎(万田本庄)、万田七郎(万田新庄)が国御家人である。現在の本庄町が本庄、万田町が新庄に相当すると考えられる。新庄が楯縫郡の西端に位置し、出雲郡宇賀郷と境を接している。
 結番帳に見える庄園の中で本庄と新庄に分かれているのは、能義郡富田庄、島根郡長海庄、大原郡淀庄、神門郡神西(薗山)庄と万田庄の五例だが、一一五六年の保元新制が出される前に、庄園として寄進・立券が行われていたと思われる。万田庄は早くから開発が進み、中核部分として不輸権を認められた東部=本庄と、より大きな川に近く、開発が進みつつあり、雑役のみを免除された西部に分かれ、西部が後に新庄として独立したのであろう。
 文治二年(一一八六)九月一五日の年記を持つ鰐淵寺古記録には、仁平三年(一一五三)一一月二七日に久木新大夫と鰐淵寺唯乗房が万田庄をめぐる相論を行い、三郎先生源義憲が方人をして、鰐淵山を焼き払ったことが記されている。これによればすでに万田庄は立券・成立していたが、為義の子義憲と結ぶ久木新大夫が介入を試み、鰐淵寺唯乗房がこれを防ごうとして合戦となったことがわかる。文永八年の地頭は勝部宿祢一族であり、その系図には鰐淵寺僧が複数名記されている。
 源義憲は為義の三男であるが、次男義賢(義仲の父)の同母弟で、長子義朝の異母弟であった。後に常陸国志田庄を本拠としたことから志田先生と呼ばれた。志田庄は同年一二月に本家美福門院、領家藤原宗子(忠盛妻池禅尼、美福門院の養子となった崇德院の子重仁親王の乳母)という体制で立券された。当時の常陸介は宗子の子平頼盛であり、その立庄はスムーズに行われたと思われる。その準備は忠盛により行われたであろうが、仁平三年正月一五日に五八才で死亡している。久安三年一一月一四日に平宗盛が常陸介に補任されたとの記事があるが(『本朝世紀』)、清盛の子宗盛はこの年に生まれたばかりであり、忠盛の嫡子とされる家盛の誤りであろう。家盛は久安五年に鳥羽院の熊野参詣に同行した際に体調を崩し、帰京した直後に病没した。その後任となったのが同母弟頼盛であり、保元の乱後に常陸介から安芸守に遷任している。なお、義憲は保元の乱には参加しなかったようで、父や兄弟と異なり、その後も生きのびている。

 

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