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2019年10月 3日 (木)

万田庄と楯縫郡3

 以上、寄進・成立した万田庄(寄進者は勝部宿祢一族であろう)に対して久木新大夫が源義憲と結んで介入(国衙在庁官人からの介入ヵ)した事件とその関連事項をみた。同年三月末には源義朝が藤原清隆の後押しにより叙爵するとともに下野守に補任されているが、この時期の清隆は大宰権帥として現地に赴任する一方で、子光隆(但馬・備中)と定隆(但馬・加賀)、清成・頼季(共に筑前)が受領を歴任していた。また、出雲国の西隣伯耆国の国守は清隆娘と平範家の間に生まれた平親範であった。実際の支配は父範家ないしは母方の祖父清隆が行っていたと思われる。
 なお多久氏の出自であるが、多久郷の範囲は文永八年の田数からすると、現在の出雲市多久谷町、多久町にかけての地域(園町、鹿園寺町は坂保に修正)と出雲市斐川町中洲・黒目・三分市地域であろう。後者が久木村であるが、複数の川が宍道湖に流れ込む三角州地帯で、田数は少なかったと思われる。多久郷の東隣は小境保で、文永八年の地頭小境二郎の子孫が南北朝期の小境氏であろうが、そこでは「伊藤氏」を名乗っており、これは小境氏が藤原姓であったことを示している。建久二年七月 日出雲国在庁官人等解には一二人が署判を加えているが、最有力である庁事五名の内訳は、序列一位の勝部宿祢、二位・三位の中原朝臣、四位の藤原朝臣、五位の出雲朝臣である。残る七名は、六位の藤原朝臣(ただし建久五年の解には署判なし)、七、八・九・一二位の勝部宿祢、一〇・一一位の出雲宿祢(建久五年には忠康一名のみ)である。
 多久氏も小境氏と同様藤原朝臣一族であった可能性が高い(本来の神門系から大原系勝部宿祢に交替と修正する)。有力在庁官人の中には一ノ谷合戦に参加したものもみられ、参加した当人は没落したが、同族がその後継を認められた可能性が高い。多久氏は藤原朝臣惣領(大原系勝部宿祢の一員に修正)であったが没落し、その藤原朝臣は小境保等の継承は認められた。多久郷は承久の乱時に謀反人跡として没収され、頼朝とも関係が深い中氏が地頭に補任されたのであろう。承久の乱ではより多くの所領が没収され、東国御家人が新恩地頭として入部してくるが、小境氏はその中でも生きのびたのである。ただし、建長元年の大社遷宮注進状に署判している在庁官人には藤原朝臣はみえず、その地位は低下していた。

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